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2017年、本気です! [Argentina 2017]


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仏教についてスペイン語でどう説明する?? 附スペイン語単語。 [Argentina 2017]

 日本を出て、海外に10年近くもいて、何度も信仰について訊かれたことがある。
いや、別にそんなに真剣な質問を受ける訳ではない。
ただ日本人は仏教徒なんだろう?仏教ってなんなの?神様はいるの?という素朴な疑問から来ている。

もちろん、ご存じの通り、わたしは一切の無信仰、無神論者Ateo(Ateismo)であり、仏教徒でもないし、宇宙創造神も信じちゃいない。

まあ、ありていに言って、ほとんどの日本人もまた仏教のことなんぞ何も知っちゃいない。わはは
日本の仏教というのは大乗仏教Budismo Mahāyānaと言って、もう神話的物語に包まれていて、まったく以て歴史的な正当性を持ち合わせていない。(邪道と言われても仕方ない)
あれはバラモン教Brahmanismoやヒンドゥー教Hinduismo、ギリシア神話Mitología griegaからキリスト教、果てはイスラーム教に至るさまざまな要素を混ぜこぜにして創り上げた偶像崇拝型Idolatríaの伝説、神話的仏教Mitología Budismoでしかない。そんなことは歴史を遡れば誰にでも明らかになるのに、つまびらかに明らかになり過ぎる所為で、日本語資料としては封印されている感さえある。ネットでちょこっと調べてみても伝説しか出てこない。創始者であるゴータマ(ブッダ)その人の死後から曖昧に伝説へと繋がれてゆく。或いはその出生そのものをすでに伝説化されたものを基に仏教の歴史としているものも多い。

バカげた話じゃないか? なぜそこにある歴史的真実から目を逸らす??

さて、まずは海外の欧米人(ラテンアメリカ含む)の大半がイメージする仏教とはいったいどんなものか?だ。



 それはヨガや禅Zenという言葉に代表されている。そして仏様のイメージだ。わはははははは
だが待てよ、ヨガは仏教ではない。ヨガはヒンドゥー教Hinduismoのものだ。
禅は仏教のイデアだ。もっともヨガと禅を明確に区別するのは難しいだろう。
けれど言葉として、少なくともヨガは仏教ではない。
ついでに輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónのイメージだ。わははははははははは
そして菜食主義のイメージもそこはかとなく付き纏っている。それが(仏教徒ではない)欧米人たちのイメージしている仏教感だ。
(※ちなみに欧米人の仏教徒というのは、大半が創価学会Soka Gakkaiだ。米国だとほぼ90%以上になるんじゃないのか。それは創価学会Soka Gakkaiだけが唯一、仏教の輸出、海外進出=布教に取り組んだ近代日本の仏教であるからだ。)



わたしは仏教そのものの歴史を学んだことは一度もない。一度もないが、僅かながらもインド史を学ぶ中で仏教の成立史については知っている。そしてバラモン教Brahmanismoから続くインド=パキスタン=バングラデシュに至る地域の宗教の興亡についても齧ったことがある。


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さて、ものすごく簡単にいこう。。。とは言っても恐ろしく複雑なのだけれど。。。

そもそもはバラモン教Brahmanismoだ。
インド亜地域に紀元前2500年当時存在した宗教らしき宗教はバラモン教Brahmanismoだけだ。
もっともバラモン教Brahmanismoは支配層の宗教であり、支配層の人民を支配する為の論理であって、いつの時代も文盲の人々は土着信仰Animismo、地母信仰Diosa madreと共にある。原始的な神々、あらゆる自然の恵みと脅威をもたらす愛すべき神々、そして畏怖すべきというやつだ。
だが原始宗教には体系的な構造などないし、そんなもの求められてもいない。各地によって様々だ。
だが人民を支配するには、権威が必要だ。権威はどこから来る??
権威は武力や宗教、資産によって来る。。。単に人柄やリーダーシップによってくるというのは夢物語だ。わはは

さて、誰でも知っているように、バラモン教Brahmanismo最大の特徴はカースト制度というやつだ。
だが大半の人が勘違いしているが、カースト制度というのはそれほど単純な上意下達のピラミッド構造ではない。
カースト制度というのは、基本的にはそれぞれのカーストごとに分離した社会を構成すべく定められたもので、最上位カーストは最上位カーストのみで社会を構成し、下の上位、中位カーストの人々によってやんごとなきを支えられているという構造だ。
上位カーストの人々は上位カーストの人々だけで社会を構成し、彼らは中位カーストの人々の使役労働によって様々に支えられているという構造だ。
そういう分離した身分制度社会がトータルとして支配の道具として役立つのは、自分たちより下位のカーストが存在し、下位のカーストに対して絶対的にも近い権威と権限を持っているという自意識だ。
下位カーストでさえ、自分たちより貧しく、権利を持たない、権威なき人々の存在によって、自意識=社会を支えられていて、それが上位カーストというものの存在さえも認める根拠となる訳だ。
よく言う"自分たちよりもっと不幸な人たちがいるんだから我慢しなさい、幸せだと思いなさい"というアレとまったく同じ構造だと言えば、理解できるはずだ。
そしてもうひとつは輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónだ。ただ今の我々の知っている輪廻転生感Metempsicosis/Reencarnaciónとは少し違う。。。
支配層は支配層に生まれ変わる。中間層は永遠に中間層であり、最下位層は永遠に最下位層として生まれつく。。。
それが支配論だ。お分かりか?
※教義的にはウパニシャッド哲学Upanishadとの関わりで、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)が有名だがそれは本論では省略させてもらう。ペルシア、ゾロアスター教Zoroastrismoとの共通点が多いことでも知られるが、成立時期の前後については明らかではない。

さて、だがもちろん、いつの世にも反逆の徒はいる。
だが間違ってはいけないが、いつだって奴隷たちは反逆を起こさない。
反逆を起こすのはより恵まれた者たちであって、大抵は支配層の中であったりさえする。

ゴータマ=シッダールタSidarta Gautama(ブッダ)はそんなひとりだった。
だが彼はなにも社会に動乱を起こすような反逆をした訳ではない。
彼はただそれを否定しただけだ。
しかも別に大きな声で否定を叫んだ訳ではない。寧ろ誰に対しても叫んだりはしなかったというべきだろう。
彼はただバラモン教Brahmanismoの教えを自ら否定しただけだ。
彼は思索の徒だった。彼は実践型哲学者と呼んでいいだろう。
彼は人間であり、伝説などどこにもない(あとから伝説を身に纏わされた訳だが)。
彼が拒否したのは輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónだった。(だが輪廻転生のシステムを否定した訳ではない。)
きっと彼は嫌世家だったのだ。彼はもう二度とこんなバカげた(苦痛に満ちた)世の中に生まれつきたくなかったのだ。
そして"解脱Moksha"によって、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónの輪から逃れることができる。もう二度とこんな世界に生まれ変わらなくて済むという哲学を創り上げ、実践したのだ。
カーストの否定も後代の産物であって、彼自身はカースト制度からの脱却と輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónの拒絶を重ねていたとみるべきだ。
同時期にはヴァルダマーナによって同じようにカースト制度に否定的なジャイナ教Jainismoも創生をみている。ジャイナ教Jainismoはより激越な修行と不殺生ahimsaによる解脱Mokshaを説いた。

もちろん、ゴータマは裕福な子弟の出だったから、彼の説く哲学に耳を傾ける仲間には事欠かなかったようだ。
そして多くの弟子が彼と同じように"解脱Moksha"に励むこととなった。
それは人々の噂となり、より下位のカーストの中にある人々の中にも、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónから逃れたいと願う者たちが続出しても不思議ではなかったろう。
そもそも最上位カーストの支配層の人々は労働から完全に解放されていただろうから、修行することにどんな問題もなかったろう。
続く上位カーストの人々にしても、決して難しくはなかったと推測される。
だからそういう人々は知識人、上位カーストを中心にしつつ、少しずつ増えてゆき、結果的にかなりの数の信者というべきか、追随者たちを生み出したらしい。
ブッダの語る哲学はとても魅力的なものを持っていたが、その実践はやはりごく普通の人々にとっては苦痛というか、困難を伴っただったろう。
人々は最初は惹きつけられても、そのままではそう長続きはしなかったはずだ。
だから普通に考えるとインド各地に広まるに連れ、実践度は下がってゆき、思想だけがどんどんと広まったと考えられる。常人には不可能な解脱Mokshaを(ブッダその人さえ実践の徒であった訳で、ようやく死を以て解脱を果たしたと解されるべきものだ。伝説の中では生前に解脱しているが)、もっと安易な形で、すなわち"修行"や"滅私"、"私利私欲の断舎離"のようなものまで哲学的実践は形を変えて広まったとみるべきだ。
より厳格でストイックなジャイナ教Jainismoが仏教のように巨大な存在にならなかったのをみるとそう考えるのにも一理ある。
或いは単にカーストを否定し、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónを否定するものとして民衆に受け入れられたということさえ考えられる。(ブッダその人はカーストも、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónもそれらの存在自体は否定していない。それらの意義・価値を否定したというに等しい。)
おそらくは、そういった変遷を経てブッダの教えを継ぐ者たちは、ブッダの死後も支配層の中に大勢残ったのだと想像する他ない。。。(とは言え、いったいどのくらいだったかはどんな資料も存在しない)
そもそも支配層(分かりやすく国王や地方豪族、領主)が、仏教徒であるならば、その地の被支配民族(領民)はほとんどの場合、仏教を押しつけられる訳で、仏教徒と呼ばれる。たとえば実際にアショカAsoka王がそれだ。
だが一方で民衆の中に本当に根を下ろしたかと言うと...なにしろ、いつの世も、民衆は祈り、願いを聞き届けてくれる存在としての『神的存在=救済Salvación』を求めている訳だが、ブッダの教えの中にそういう絶対的創造神は存在しない。仏様(ほとけさま)の存在はブッダの教えの中には一切ない。それは民衆の間に広がりを見せる上では非常に弱かったろう。
だからブッダの生前に、その教えは少しずつ変質しつつ、各地へ広まっていたと考えられなくもない。

そういう変質、バラつきがあって、ブッダの死後の動きは、ブッダの弟子たちによる師の教えの確立から始まる。。。。
各地に広まり、伝言ゲームよろしく様々に解釈され、伝説を伴ってすっかり変質の危機に直面しただろうブッダの教えを、弟子たちが寄り集まって、正統派を確立しようという試みだ。(キリスト教でも繰り返されてきた歴史だ。)2回、3回と数年の間隔を空けて、ブッダの教えが確認される。(※当時は言行録の編纂ではなく、ただ会議として口頭で統一が進められたらしい。)
けれど、もう口伝えにインド各地に広まったブッダの教えは、その時点ですでに伝言ゲームさながら様々に姿を変えてしまっていたと想像する方が正しい。
そして諸派が生まれる。。。要は分裂だ。破門されるような諸派もたくさん出る。

分裂を経て、仏教は一旦、檜舞台から姿を消すかのように見えた。。。代わって台頭してきたのがヒンドゥー教Hinduismoだった。
実はヒンドゥー教Hinduismoの開祖が誰かはさっぱり分からない。そんなものはいないのだ。伝説的にも存在しない。
ヒンドゥー教Hinduismoの成立には少なくとも3つの要素が関わっている。

1.民間土着信仰・地母神伝承の説話集"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"の編纂成立。
2.バラモン教Brahmanismo指導者による生活習慣・法体系の"マヌ法典Leyes de Manu"の成立。
3.ブッダ亡きあとの諸派分裂división de facciones・破門excomuniónされた亜流の存在。

いずれにせよ、ヒンドゥー教Hinduismoという名称は最初からあった訳ではなく、後代になって、それなりの統一された形を持つようになってから名づけられたというのが正しい。(バラモン教Brahmanismoという名はもっとさらに後代につけられたらしい。)
"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"そのものは未読なので内容については詳しくは触れられないけれど、数多の土着信仰、地母神に捧げられた讃歌に絡めて、人々の生活の中にある規律や戒律の成立について決して体系的にではなく、寄せ集め的に土着民間宗教の伝承として編纂されている。

 そんな中、ブッダらによる仏教の広がりに危惧を抱いただろうバラモン教Brahmanismoは、自らの宗教体系と秩序維持の補強にでる。
それが"マヌ法典Leyes de Manu"の成立と呼ばれる。それはイスラームにも共通する"法概念"、社会構造の確立を目指したものだった。
その頃すでにローマ、キリスト教世界と接していたインド社会は仏教やさらに同時期に発生した"反カースト"宗教ジャイナ教Jainismoなどの影響も踏まえて、民衆の生活様式、生活習慣に則した統合的な法体系として"マヌ法典Leyes de Manu"を成立させた。カースト制度の正当性を確認する必要もあったろう。だからそれはあくまでもバラモン教Brahmanismoの支配体制をより確実にし、全土の支配を固める為だったと言われているが、その過渡期の中で先に挙げた"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"が編纂され広まったことがヒンドゥー教Hinduismoの成立に深く関わっている。

 ひとつの見立てとして、この民間伝承説話である"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"が、先ず破門されたブッダの亜流と結びついて神仏宗教と化し、そこに法体系であるマヌ法典が為政者たちによって導入され、それらがミックスされてヒンドゥー教Hinduismoの母体が出来上がったと考えてもいいかもしれない。だからと言っていいと思うが、ヒンドゥー教Hinduismoは、ブッダの教え"解脱Moksha"を、死に至らずとも"修行=ヨガを通じて生きることにより"果たせるとより人々に受け入れられやすい形で流布させることになる。これをヒンドゥー教Hinduismoの新しいアイデアであるとみる必要はないだろう。ブッダの教えが各地へと広まる中で、そういう破門されたような諸派がヒンドゥー教Hinduismoを創り上げていったとみる方が現実的だと思われるからだ。(なにしろ開祖が存在しない訳で、すべてが曖昧に年月を掛けて取り込まれていったのだ。だからヒンドゥー教Hinduismoは宗教という以上にひとつの文化習慣でもある訳だ。)

さて、仏教に戻る。。。

 そんな訳で、民衆は祈り、願いを聞き届けてくれる存在としての『神=救済Salvación』を求めているにも拘わらず、それに応えられなかった仏教は一旦、インドではその勢力を失うかに見えた。仏教がその勢いを取り戻すには変革が必要だった。
まさにそのウィークポイントである"救済Salvación"を取り入れることでしか仏教に道は残されていなかった。
だが、もちろん、そんなことを考えてブッダの弟子たちが変革を成し遂げた訳ではあるまい。
まさに諸派分裂división de facciones・破門excomuniónの中からそれは生まれたのだ。

 最初は民衆に救いを差し伸べるものとして神に代わる"菩薩信仰fe Bodhisattva"を掲げた分裂諸派が勢力を拡大してきたと考えられる。
"菩薩Bodhisattva"とは、神仏ではなく、修行者のことだ。だがカトリックにおける聖者Santoと同じように、修行者そのもの神格化する動きとして出てきた訳だ。そもそもブッダは人であって、人間であって、なんら神的な存在ではない。それを神的な存在にしようという試みでもあったろう。ブッダが修行者として神的な存在となり、人々に救済を齎す者となるならば、たちまちのようにそれらは偶像化される。偶像崇拝Idolatríaを禁じたはずの人間イエスがまさに偶像としての磔刑のイエスとして蘇り、人々に信仰されたように、ブッダもまた神格化と同時に仏=ブッダとして偶像化され信仰されることで、"ブッダ=救済する者Salvación"という構図が生まれた訳だ。
そうしてようやく仏教は大衆宗教としての性格を纏い始める。。。
さて、ここからは仏教史の時間だ。
わたしには手に負えない。。

 歴史的な事実だけを積み上げると、そんな訳で、アショカAśoka王の時代に一度は王権の伸張に伴ってインド亜大陸を席巻するかに見えた仏教だったが、バラモン僧たちの巻き返し、ヒンドゥー教Hinduismoの創生と席捲によりインド亜大陸からはほぼ一掃されてしまう。
 その後の仏教の歴史を辿ると再び蘇えるのは発祥の地インドではなく、中国大陸においてであった。
 仏教の衰退と移動についてはイスラーム勢力の侵略・支配による寺院の破壊等も見逃せない主因と言われており、寺院に生活拠点を置いていた仏教指導者たちがチベットや中国を始めとする国外へ避難したことも確認されている。 

 中国で新しい変化は起き、ブッダの教えは、"大乗仏教Budismo Mahāyāna"というまったく異質な伝説物語へと変質する。それが我々日本人が中国から輸入した"仏教"というやつだ。(※それに呼応して、ブッダのオリジナルな教えは"小乗仏教Budismo Theravada"と呼ばれるようになる。)
 そこには神的な存在としての仏(ほとけ=ブッダ)があり、カトリックやギリシア神話Mitología griegaに端を発する地獄とその支配者、閻魔大王Iamaがいたり、異様の菩薩は観音菩薩、千手観音、不動明王から毘沙門天、阿修羅、金剛力士、大黒天までもはや原始宗教的な色合いの濃い偶像崇拝Idolatríaを基にした多神教、ゴータマ(ブッダ)が知ったら腰を抜かすような土着信仰や地母神と分かちがたく結びついたごった煮の様相を呈した新興宗教が出来上がった。。。

 だから仏教には2種類あるということ。ひとつはブッダが目指した解脱Mokshaを目的とする実践的哲学、小乗仏教Budismo Theravadaであり、現在は少数派であって、主にスリランカ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどで信仰されており、もうひとつは多数派で、大乗仏教Budismo Mahāyānaと呼ばれ、ヒンドゥー教やカトリック、イスラームなど様々な影響を受けて出来上がった神話的仏教Mitología Budismoと言ってよく、中国、チベット、モンゴル、ベトナム、朝鮮、日本で信仰されているものだということ。但し、チベットやモンゴルのものはチベット仏教Vajrayāna(発音不明)として区別されるが系統としては大乗仏教に属すると考えられている。また現在の中国では14%-20%以下の人々が信仰しているに過ぎないとされているし、より土着信仰と深く結びついた異質なものであるという。
※チベット仏教はbudismo tibetanosと言った方が容易いし、理解されそうだ。但し、チベット仏教にはいくつかの大きな分派があるので注意。

 さて、ありていに言って、我々日本人の大半が好むと好まざるとに関わらず、生まれながらにして仏教徒とされているその"仏教=大乗仏教Budismo Mahāyāna"とはそのようなものだ。(ああ、しんど。)

(追記 1月2日)
そんな訳で、我々日本人が信仰している大乗仏教Budismo Theravadaというのは、仏教神話Mitología Budismoであり、それが故に、大半の日本人において仏教信仰は、祖先崇拝Culto a los ancestrosを中心とする真の意味で信仰FeやCreenciaと呼ぶには相応しくない曖昧なものに留まっている。またキリスト教と異なり、洗礼Bautismoの儀などが存在しない為、生まれた時から好むと好まざるとに関わらず、先祖ancestrosの"家familia"の属性atributoのひとつとして仏教徒であるとされる為、無自覚的inconcienciaであることも少なくない。また大乗仏教Budismo Theravadaにおいては、カトリックと異なり、破門Excomuniónという概念が極めて希薄であり、僧monje身分以外の者が破門されることはまずあり得ない。師を抱く小乗仏教Budismo Mahāyānaにおいては破門制度Excomuniónがある。

 おまけに日本における仏教の祈祷文oracionesの主文は、サンスクリット語Sánscritoの音写(韻を聞き写しsonido copiado)して漢字を当て嵌めたもの=南無阿弥陀仏Nianfoや、サンスクリット語Sánscritoを中国語に漢訳されたものを日本式に読んだもの=般若心経Sutra del corazón、サンスクリット語Sánscritoの音写sonido copiadoと漢訳の日本語読みを混ぜたもの=南無妙法蓮華経Canto Nichiren : Namu Myohorenge-kyo、等を使用しており、日本語としては意味をなさず、日本人には理解不可能な祈祷文oracionesをそのまま現在に至るまで使用している。
 それが故に、日本人は特別に仏教を受講しない限り、仏教の思想を理解することが不可能であるということ。(※これはどう考えても異常な信仰形態というしかないだろう。例えば古代ヘブライ語で書かれた聖書の文言をアルファベットに音写したものを現代米国人が意味も分からずにそのまま暗唱しているようなものだ。)
こういう祈祷文oracionesの難解さは、大半の日本人を自らの宗教であるはずの仏教を理解することから遠ざけてきた。
 また6世紀半ば交易を通じて中国から仏教を輸入した訳だが、それ以前、古代日本には土着信仰である多神教、神道Sintoísmoと呼ばれるものがあった。神道もまた独自の開祖を持たず、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった伝承を編纂した書物を神典として成立している。
 神道は仏教を広める為、わざと一部を除くすべての神社で長く仏教思想と混合され=神仏習合sincretismo de Dioses y Budismo、その後19世紀半ば明治時代になって初めて、政治的な配慮から神仏分離が徹底された。その為、日本人の信仰の中では仏教と神道Sintoísmoは綯い交ぜにされたままであり、仏教徒として規定されながらも、神道の神を崇めることを異としない。
 そういう難解さincomprensibilidadや曖昧さambigüedadが積み重なって、日本人はキリスト教文化を受け入れることにも躊躇がなく、特に第二次世界大戦後の日本社会は欧米文化に感化される中で、キリスト教的価値観に重きを置く神仏混交のカオスとなっている。
 故に、我々日本人の大半は、新年には神社santuarioへ参拝し、カトリック教会で挙式し、仏教徒として仏閣templo budistaにて葬儀を行うということが日常化している。
それは日本人の信仰の曖昧さambigüedad、希薄さdiluciónを招く大きな要因となっている。
(※わたし個人としてはこれをナショナリズムの文脈に置き換えて捉えて欲しくはないとここに付記しておく。) 
 
 
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 そんな訳で、海外の人々に"Tomo、あなたは仏教徒? 仏教って神はいるの?"などと質問される度に、わたしはかいつまんで、出来るだけかいつまんで、わたしのスペイン語能力の能う限りの範囲で(汗っ)、彼らに仏教というものを、そして日本人の信仰の実態について説明する。
わはははははははははははははははは

それが、どれだけ大変なことかっ!! 

つい先日も、現在の住まいのオーナーとワインを飲みながらそんな話になった。
いつも困るのはスペイン語で大乗仏教や小乗仏教をなんて言うか、だ。
いつもいつも苦労してる割には一度も調べたことがない。いつも"スペイン語ではなんて言うのか分からないけれど、直訳すると我々日本人はBuddismo grande, Buddismo pequeñoと呼んでる"なんていい加減なことを言ってた。わははははははははは
そんな訳で、今回改めてヒマ潰しに、頭の中を整理しつつ、必要な単語をスペイン語で調べてみることにした。
それが今回blogを書いた理由だ。

大乗仏教 Mahāyāna Buddhism(英) / Budismo Mahāyāna ブディスモ・マーヤーナ
小乗仏教(上座部仏教)  Theravada Buddhism(英) / Budismo Theravada ブディスモ・テラバーダ

バラモン教 Brahmanismo ブラーマニスモ (なるへそ、ブラフマン教という意味なんだ。バラモンでは通じなかったんだね。。。汗)
ヒンドゥー教 Hinduismo ヒンドゥイスモ
ゾロアスター教 Zoroastrismo ソロアストリスモ
ジャイナ教 Jainismo ハイニスモ
マヌ法典 Leyes de Manu レジェス・デ・マヌ

偶像崇拝 Idolatría イドラトリア 

輪廻転生 Metempsicosis メテンシコシス だがこれで通じる人は少ないかも知れない。
単に転生 Reencarnación レエンカルナシオン の方が分かりやすいかも知れない。

解脱 Moksha モクシャ 伝わるんだろうかね?? la liberación espiritual リベラシォン・スピリトゥアル精神の解放??(wikiの説明)

ちなみにカースト制度は Casta カスタとなっていますが、多分、伝わらないと思います。el sistema de castas よりは、clasismo(階級主義)の方が伝わりそうな気がします。el sistema clasismo システマ・クラシスモで十分かと。。。

えーと。。。汗っ

菩薩を調べてみたら、 
菩薩 Bodhisattva と出てきましたが、発音が分かりません。。。 ボディサトバでしょうか??
菩薩信仰は Fe Bodhisattvaです。
信仰 Fe または Creencia フェ、またはクレエンシア
洗礼 Bautismo   バウティスモ
不殺生 ahimsa アイムサ
チベット仏教 Vajrayāna (発音不明) ...  budismo tibetanos  ブディスモ・チベターノの方が分かりやすいだろう。

ゴータマ=シッダールタは、なるほど氏名の順序が変わる訳だ。わはははは  Sidarta Gautama シッダールタ・ガウタマ
 
祖先崇拝 Culto a los ancestros クルト・ア・ロス・アンセストロス

属性  atributo アトリブート

破門  Excomunión  エクスコムニオン

無自覚的 inconciencia インコンシエンシア

無神論者  Ateo (無神論 Ateismo)  アテオ (アテイスモ)

ああ、しんど。。。(再び。笑)
全部覚えられるかな。。。すぐ忘れるやろな。。。
ホンマはこれを全文スペイン語に訳せたら一番いいのだが、そんなこと、とてもじゃないがわたしの手には負えない。。。わはは
誰か助けてくれる?? 
わははははははははははははははははははははははははははは

 
img141a43204_1.jpg 
※想像し得る範囲の実在したゴータマの像。修行僧のイメージですな。
写真はネットから拝借しました。


追記、スペイン語
 
音写 sonido copiado ソニード・コピアード

漢訳されたものを日本語読みする leer la frase traducida al china por pronunciación idioma japones

サンスクリット語 Sánscrito サンスクリート

祈祷文 oraciones オラシオン

難解さ incomprensibilidad インコンプレンシビリダッ
曖昧さ ambigüedad アンビゲダッ
希薄さ dilución ディルシオン

神道 Sintoísmo シントイスモ

神仏習合 sincretismo de Dioses y Budismo シンクレティスモ・デ・ディオス・イ・ブディスモ

神社 santuario サントゥアリオ

仏閣 templo budista テンプロ・ブディスタ

南無阿弥陀仏(念仏)  Nianfo ニアンホ

般若心経  Sutra del corazón スートラ・デル・コラソン

南無妙法蓮華経  Canto Nichiren : Namu Myohorenge-kyo カント・ニチレン

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移民救済。。。我々主義はそれを越えた人道主義を裁けるのか!? [Argentina 2017]

これは本当に興味深く、重要なニュースだから、注意深く読んでみて頂きたいと思う。(いや、まあ、好きにすりゃいいが。苦笑)

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移民を助けるのは罪か…密入国手伝った男性、仏で裁判開始  AFP=時事 1/5
 
【AFP=時事】移民を助けるのは善行かそれとも犯罪か──。フランス南部ニース(Nice)の裁判所で4日、アフリカ出身の移民たちの密入国を助け、住まいを与えた男性の裁判が始まった。欧州で移民や国境管理が政治問題化するなか、連帯の精神と法律の規定のどちらが優先されるべきか議論を呼んでいる。
 男性はイタリアとの国境近くでオリーブ農園を営むセドリック・エルー(Cedric Herrou)被告(37)。フランスの警察の目を盗んで国境から車で移民たちを運び、宿泊場所を提供してきた。地元ではちょっとした英雄だが、現在は罪に問われる身だ。
 地元ではエルー被告のほかに、2人が同じく移民を違法に助けたとして裁判が開かれている。これらの移民は頼りない船に乗って地中海(Mediterranean Sea)を横断し、欧州に渡って来た。エルー被告の農園は検問を逃れて密入国を試みる移民の絶好の通過ルートになっていたという。
 エルー被告は昨年10月、活動家仲間を率いてフランス国鉄(SNCF)所有の保養地を占拠し、使われていない別荘を移民たちに開放。だが3日後に警察が介入し、移民たちは簡易キャンプに移送され、自身は逮捕された。
 エルー被告は4日、法廷の席で「自分がこうした活動をしているのは助けを必要としている人たちがいるからです。これはしなければならないことなのです。(移民の)家族たちが苦しんでいるのです」と裁判官に訴えた。
 一方、検察側は執行猶予付き禁錮8月を求刑し、被告の車両の没収なども求めた。また、自分の行動を正当化するための「政治的な舞台」として裁判所を利用しているとエルー被告を非難した。
 エルー被告は開廷に先立ち、裁判所前に集まった数百人の支持者に「人々を助けるために法律を破らなければならないとしたら、そうしてしまおう!」と気勢を上げていた。
 裁判で有罪と認められれば、エルー被告は最高5年の禁錮刑を受ける可能性がある。判決は2月10日に言い渡される。


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 残念なことに、法的には男性は有罪を免れないだろう。
けれど彼を有罪にしてはならないのだ。
もちろん、それを検察側も知っている。だからこそ執行猶予付き8ヶ月の禁固刑を求刑するに留めたのだ。できれば容疑者にそれを容認して争わないで欲しいという密やかな願いを持って。。。

だが被告は無罪を主張するだろう。
法廷はとても微妙で重大な問題に直面する。

 これを有罪と判決を下すなら、世界はナチスに追われたユダヤ人難民を匿う、或いは亡命を手助けしたことを有罪とせねばならないということだ。シリア空爆を逃れ、テロリストや政府軍の爆撃と迫害を逃れてきた難民を匿うことを犯罪として禁じるなら、難民の亡命の手助けを犯罪として禁じるなら、ナチスがユダヤ人迫害を開始した時、ユダヤ人を密告した者が正義であり、ユダヤ人を匿い、亡命を手助けした者は有罪とされる他ないということだ。
 アフリカからの移民はケースが違う??
だったら本当にシリアからの難民なら逮捕されず、裁判に掛けられないのか??
いや、そんなことはない。このケースで法的に争われているのは、庇護された者たちが"難民であるか、移民であるか"ではないからだ。
法廷で争われるのは、政府が禁じている"不法入国者"を匿い、手助けするのは違法かどうかという問題だからだ。
不法入国者とはこの場合、シリアであろうとアフリカであろうと、正規の入国ビザと入国審査を受けていないすべての人々を示す。
共に着の身着のままであることも違いはない。ともに助けを必要としていることも違いはない。
経済難民であるとか、政治的難民であるとかは、ここで問われてはいないのだということをしつこいほど明確にしておく必要がある。

政府が認めていないから!?

政府は時として政策を誤る。それは当然あり得べき事態でもある。
法や条例は政府によって制定され、運用される。
だが法はそもそも人間の正義によって制定されたものであるはずだ。(少なくともこの21世紀に現存し、通用し得る法は。)

フランス政府はヴィシー政権下でユダヤ人狩りを行ったのではなかったのか?
ヴィシー政権を"我々の政府ではなかった"というのは、責任逃れに過ぎない。それは紛れもなく彼らの政権だった。フィリップ・ペタンは決してクーデターや占領軍によって指名された首相ではない。正規のフランス議会によって任命された首相だ。

いや、経済難民はあくまでも庇護の対象とはならない??

例えば、"ナチスによる迫害が収容所への強制送還が始まった時点からは難民救済は合法とされるべきだった"というのは誤りであるのは言うまでもない。
収容所への強制送還が始まる数ヶ月前に、政府発行の正規ビザを持たずに亡命を試みた人たちは同じように経済難民扱いされたのだ。
各国政府は彼らの受け入れを拒んだではないか。
その時点では誰しもその後起こったこと予想できなかったろう。だから彼らは経済難民扱いされたも同然だった。
政治的亡命であるとは認められなかったからだ。政治的亡命でないとすれば、それはただの不法移民扱いとなるしかない。

国境を越えて、豊かな国を目指すことを我々は禁じることができるのか!?
移動の自由を我々は禁じることができるのか!?

片やEU統合政策を推し進め、国境を取り払い、国民の移動の自由を掲げながら、もう一方では国境の壁を高くし、乗り越えてきた者を追い返すことを善しとする政策に普遍の真理があるのか!?

人種や国籍によって差別することを禁じる法律が、EUという自分たちの協定グループ内は移動は自由(権利として認める)だけれど、アフリカやアラブ、或いはシリアは自分たちの協定グループじゃないからダメだ(権利として認めない)というのは、どこまで法として普遍性を持ち得るのか!?

彼は不法移民の入国をビジネスとしてやった訳ではない。まさに人道的援助としてやって訳だ。
一方では、アフリカ諸国においても人道的援助を掲げる政府が、人道的援助を法廷で裁くことの正当性が問われる。
人道的援助の適法性を法廷で裁けるのかというテーゼだ。

国境を犯罪者から守る権利はある。
けれど犯罪者でないならば、国境はすべての人々に解放されてあるべきものだ。
そもそも国境などというものは、勝手に大国が戦争をして引いたものでしかない。
国境で人々を閉じ込めたのは過去のお世辞にも完全無欠とは言えない"ご立派な"政府だ。
そもそも人々が申請した入国を犯罪歴の有無に照らし合わせて直ちに認めるならば、彼らは不法入国などしない。
悪意や偏見があるとしか思えないような厳しい入国審査を課し、滞在許可を制限し、就労を拒否するからこういう問題が起きてくる訳だ。
すべての望む人に(犯罪歴がなければ)入国を許可し、必要な滞在を許可し、就労を遅滞なく許可して、納税を義務づけるなら、こういう問題はなくなる。そして犯罪を犯した者の滞在許可を取り上げ、再入国を拒否し、納税をしない者の就労許可を取り上げ、出自の国へ強制送還すべきなのだ。(費用の問題は残るが税収も上がる)

すべては我々主義の問題でもある。
我々主義はEUの成立によって拡大されたけれどそれが我々主義であることに於いて他方を拒否していることに変わりはない。
我々主義はそれを越えた人道主義を裁けるのか!?という問題だ。

判決次第ではこれは重大な先例となる可能性がある。

けれど現実はとても高い壁に阻まれている。
すべてを不問にして、現行法に照らして合法か違法かだけを争う裁判が予想されなくもないからだ。
(※不幸にして我が国日本なら間違いなくそうなる。)
英国のように非成典憲法なら先例に照らし合わせることでハードルは依然高いままだけれど、(万一の場合)その無罪判決効果はとても大きな意味を持つ。
フランス司法がどのような裁判を争い、また弁護側がどのような主張を繰り広げるのか、続報を注意して見守りたい。
またこれと同じような裁判が各国で争われることを期待するばかりだ。
どこかで風穴を開けなければならない。

18世紀から20世紀に成立した憲法概念が古いものであるのも一面の事実だ。
今、世界は再びナショナリズムの世界に舞い戻りつつある。
良識はどこからやってくるのか、古い"我々"から脱却し、新しい真に全人類的な"我々"の概念を手にすることは可能なのか。

だがその前にどうしても今一度、破壊的戦争を経験しなければ"我々"は学べないのではないかという疑念が暗く影を落とす。。。

これは法と人間の正義の闘いなのだ。
人間によって作られた法は、人間の正義を打ち負かすのかというテーゼだ。
我々主義によって支えられた法概念がそれを越えた人道主義を裁けるのか!?というテーゼなのだ。




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人生の価値を知る者はイチゴの価値を知る。 [Argentina 2017]

珍しく簡潔に話をしよう(嘘) わはは

先日、Facebook上で一粒10,000円のイチゴの話題があった。
で、調べてみるとあるわ、あるわ。驚いたことにたった一粒で50,000円のイチゴまであるという。
85g-100gくらいの特大サイズらしい。

いやいや、やはりバカげているのだ。

農家の方の素晴らしい情熱と努力などと囃し立てる向きもあるようだが、まったくバカとしか言いようがない。
美味しいものを作ろうという情熱と努力は認めよう。けれどそれが1粒、1,000円だとか、50,000円だとかになるならそれは無意味、いや、ナンセンスなのだということ。
そもそも1粒50,000円になるどんな理由もない。
コスト?? いや、違う。しかも桐の箱に一粒入っているって?? バカかっ! 
話を戻そう。コストではない。だったら??
農家の採算。
申し訳ないけれど、農家の採算はコストではない。
コストとはその一粒を作るのに掛かる経費のことだ。
これだけの量しか収穫できないから自分たちが食べてゆくには、これくらいの価格で売らないと(これだけ苦労したのだから)...というのは、そもそも事業計画として、製品開発として失敗しているということだ。高い値段を付ければそれ自体が付加価値を生むなんて発想は狂っているか、悪徳商法だ。

どんな生鮮食品も100g/50,000円の価値はない。そういう価値を認めてはいけない。
薬価のない消化されるだけの食べ物に100g/50,000円の値段をつけること自体が狂っている。
それは世界の常識だ。
残念なことに日本の常識ではないらしいが。

TPPは包括的だから脇に置いて、だが不関税条約の提携は必須だし避けられない。
イチゴの国際的価格は小売値で1,000g/300円から600円までだろう。(推測に過ぎないと断っておくが)
1kgだ。100gなら30円から60円程度ということだ。
いろんな国があるから、もっと高いケースだってあるだろう。
中には100gで800円なんて国もアラブのどっかであるかも知れない(妄想だ。笑)。
けれどそれでも800円だ、まあいい、100g/1,500円だってあるかも知れない。いや、ないな、絶対。。。わはは
あるとしたら日本のイチゴを輸入したケースとか日本の農家が海外で作っているとか、そんなケースだろうな。

まあ、いい。
マンゴーの1ヶ10,000円にもびびってたが、イチゴの一粒50,000円なんて、バカバカしくて(悪い冗談のセンスに)反吐が出そうだ。
そんなものを生産ある農家も、売る商人も間違っているし、そんなものを買う奴は本当にバカなのだ。
おまけに桐の箱に入れるってのはなんだ??
ホントにギャグかなにかなのか??

農家の努力はより美味しいイチゴをより低価格で生産する努力であるべきだという単純なことだ。
より美味しくて、より大きな(国際競争力のある)イチゴをより低価格で生産できるように努力するこべきだという、本当に単純極まりない事実だ。

それが理解できないのは、、日本人は自分の人生の価値(値段)を知らないからだと思う。

大金持ちだから?? 
いや、そんなことじゃない。たとえ総資産1兆円?年収10億円?あろうとも、100g/50000円の生鮮食料品という概念は論理的に破綻している。
況してや年収1億以下の人々にとって、一粒50,000円のイチゴをありがたがる(存在を許容する)価値観はナンセンスだ。

あなた方の大半は年収1億円どころか、年収500万から1200万円くらいだ。
もちろん、もっと貧しい人々もたくさんいるし、また年収2000-3000万円以上の人もいるだろうが、このblogを読んでる人にはいなさそうだ。わはは
そういうあなた方がtvや雑誌、ネットで、一粒1000円とか、10000円、50000円のイチゴのニュース、情報番組を見る訳だ。
そこにバカげてると怒らず、"凄いっ、いつか食べたい"と願うのはやはり脳みそが足らないのだ。
そういうものの存在価値を認めてはならないのだ。

あなたが働いて、ストレスを溜めて、そのストレスの解消の為に節約したお金で一粒50000円のイチゴを、いや、一粒1000円のイチゴを5粒食べるのだとしたら、それはあなたが自身の人生の価値(値段)が理解できていないということを示している。
ここまで言って分からないなら、そういうことだ。わはははははははははははははははははは

自分の人生の価値を知る人間は、一粒1000円のイチゴ、一粒50000円のイチゴ、1ヶ10000円のマンゴーを販売する=そういう悪意と愚かさに満ちた価値観のメディアによる強要や洗脳に対し、怒りに似たバカバカしさを覚えるのが当然だということだ。

それはあなたの人生の価値が安いとか、高いとかではない。
世の中が狂っていることに気づくか、気づかないかの差だと言ってもいいほどだ。





本当に哀しいことに、大半の、ほとんどの日本人はそこに違和感を感じない。
違和感を感じないのは、日本人が自分の人生の価値(値段)を知らないからだろう。

※いつも言っているようにわたしの人生なんぞ糞だ。だがこの糞みたいな人生ですら、一粒1000円のイチゴをありがたがることをおぞけを奮って拒否している。それはわたしが自分の人生は糞程度だという価値を知っているからだ。わははははははは







もっともな正論は、農家の努力は、より美味しくて、より大きな(国際競争力のある)イチゴを、より低価格で、生産できるように努力するこべきだという、本当に単純極まりない事実だ。



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ブエノスアイレス、いいとこ♪、悪いとこ♪ [Argentina 2017]

アルゼンチンに着いて丸一ヶ月、まだ仕事もせず、ぶらぶらと、いや、ほとんど引き籠っておりますが(笑)、ようやく仕事が決まりそうです。
但し、先方が15日からバケーション入りするので、こちらの都合もあって、働き始めるのは2月10日からになりそう。
まだまだわたしのバケーション=引き籠り生活は続きます。(やっぱり今は節約しなきゃだからねぇ)
また決まったら報告します。


さて、ブエノスアイレスだ。


ブエノスアイレスに住む人々のことをPorteñoと呼ぶ。ポルテーニョだ。
アルゼンチンはバカデカい国だが、都市はブエノスアイレスだけだ。他の町は本当に小さな町ばかりでどこにも都会と呼べるような都市は存在しないらしい。
で、Porteñoは他の地域の人々、そして外国人からも"気取ってる"と言われることが多いし、彼らもそれを認めている。
もちろん、どこだって人によりけりだ。そんなことは言うまでもない。けれど、まあ、半分くらいの人たちはホントにいけ好かないくらい気取ってる、というか冷たい。。。
 たとえば、先日スーパーで買い物した帰りにアパートのすぐ近くで袋が破れた。。。たくさん買い物した後だったので困ったもんだと思ったら、目の前がカフェだったので、カフェに入って、コーヒーを注文した後、店員さんにビニール袋を一枚貰えないか?と頼んでみた。もちろん、ウエイトレスさんは二つ返事でokをくれて袋を取りにカウンターの中に...と、中にいた店主の爺が"ダメだ、袋はあげられない。スーパーで買え。(こちらではビニール袋は50セントで買う)"と物凄い険悪な顔で言った。
スーパーで買った袋が破れてしまったのは明らかに見て分かる状態だったし、そもそもこの状態でどうやってスーパーまでどうやって戻れと言うんだ!?とんだバカ野郎だった。わはは
 だがウエイトレスの女性がわたしに目配せしたのでわたしは黙っていた。。。と後で、その女性が空の段ボール箱を持ってきてわたしにくれた。もちろん、ありがとうございますとお礼を言ったら、"あの糞爺はおかしいのよ"と口パクでわたしに合図してくれた。わはは
 もちろん、だから爺は糞だが、女性はとっても親切だった訳だ。
こういうことが本当にちょくちょくある。とっても親切な人とまったくもって腹立つくらい不親切な人が半々だ。
スーパーの店員ももうホントにムカつくくらい不親だったり、嬉しいくらい親切だったり。。。
 仕事探しでレストランを回っていても、ムカつく奴の多いこと。
なんか物凄い偉そうにというか、気取ってわたしと話をする連中がいる。なんだかわたしにももちっとおしゃれして来いと言わんばかりの視線を感じることもある(ドレスコードかっ!? 怒)。
タンゴとかって、サルサと違ってやっぱりかなり気取ってるからね。。。なんかそういう感じなのかも。わははははははははは
よく言えば、ダンディな人たち!? ぶっちゃけて言えば、面倒臭い奴ら?? わはははははははは
もちろん、きっと友達になってしまえば全然違うんだと思う。けれど最初の距離感はやっぱりちょっとこれまでのどの国とも違う。

 これまでの旅で知り合ったアルゼンチン人はみんなとてもフレンドリーだった。Porteñoだって何人かいたけれど、みんな凄く人懐こかった。。。
けれど地元では違うのか??ただ人によるだけなんだろうか?? わたしがFBで連絡を取り合うようなアルゼンチン人の友人は一組のカップルを除いてみんなPorteñoではない。他の田舎町に住んでいる。Porteñoは一組だけいるが、彼らはまだCosta Ricaで働いている。そうChile Rojoの同僚とそのご主人だ。わはは

そんな訳で、現在ここに友人は一人もいない。まあ、仕事さえあればあっという間に友人はできるし、どんな問題もないんだが、仕事が見つからないと困ったもんだ。

アルゼンチンの素敵なところ。。。

1.肉がめっちや美味いっ♪ 
2.ワインが安い♪ 
3.美味しい生ビールがあるっ♪
4.生ハムやソーセージが美味しくて豊富♪ 
5.古い街並みと公園がたくさんある♪
6.書店や劇場がたくさんある♪ 
7.国土が広く雄大な大自然がある(遠くにはある。。。高いけど)♪
8.中南米で唯一、チーズ文化が豊か。
9.日本食材などは中華街でほとんど入手可能。
10.おしゃれな店がたくさんある。

アルゼンチンの困ったところ。。。

1.クーラーの水滴があちこちで道路に落ちてくるのが当たり前で、歩いていると否応なくみんな濡れる。。。
2.お米はどこのスーパーでも1kg入りの小さな袋しか売ってない。めっちゃ不思議。。。
3.地下鉄は発達しているように見えるが、なんとすべての路線はほぼ中央の2つの駅でしか乗り入れしていない。すなわち、乗り換えするには一旦、中央まで行かないと他の路線に乗り継げないという不可思議。。。蜘蛛の巣状ではなく、単に放射線状に伸びてるだけ。。。(1本だけ立てに短いリニアHがあるがほとんど役に立たない。)
4.市内バスが均一料金ではなく、いちいち行き先を運転手に告げなければならず、運転手が自動改札機の料金を変更してから前払いカードをかざさなければならない。しかも地下鉄より高い!!(地下鉄は放射線状なのでバスは必須)
5.ちなみに地下鉄の自動改札機の精度がとっても悪くて読んだり、読み込まなかったり。。。
6.魚は極端に乏しい。。。Mar de la Plataという5-6時間掛かる隣り町から来るしかないのだけれど、なかなか難しい。。
7.ファーストフードタイプのピザとパスタは驚くほどマズい。大豆だけのマズいコロッケが総菜としてポピュラーだが安さ故か、割と人気。
8.パンがマズい。。。パン屋はケーキ屋だと思え。
9.街中の至るところで、年柄年中、あちこちで古い建物の補修工事をしているのでとても歩き辛い。。。
10.ホームレスが至るところにいる。。。(南米ではホントに珍しい)
11.コーヒーが高い。。。まあ、あまり採れないみたい(北部で採れるようだが大して美味しくもない。)
12.ナチュラルヨーグルトがない(いや、あるけど小さい一回用)。 
  うそやろ??と思うけどない。。。大きいサイズは全部フルーツ味砂糖入り。
13.Cotoという大手スーパーの割引表示はとてつもなく意地悪で、分かりにくい。。。(他店も同じ傾向がある) 
たとえば、
"30%off $6.8" ...と大きく表示してあると、それは$22.7の商品の30%offで$6.8お得ですよ、という意味。詐欺かっ!?下には小さくもともとの販売価格$22.7、割引済み価格$15.9が本当に小さな文字で書かれている。
"70%off" ... とあったら要注意だ。大抵は下に小さな文字で、2つ同じものを買えば、2ヶめの商品を70%offと書いてある場合がほとんどだからだ。 トータルすると2ヶ買ってやっと35%offだ。                   
"40%off" ... たとえば、クレジットカードだけの割引とかも多いし、下に小さな文字で金曜と土曜日だけ、と書いてあるのが当該日でないのに貼りつけてある。
さらには、ワイン売り場のあちこちに15%offの表示があるけれど、実際に割引になるのは、その辺りに吊るされているA4サイズのコピー用紙に小さな文字で印刷されているものだけだったりする。そんなもん探せませんよ、物凄い種類の中から。。。
14.アルゼンチン製のパスタは酷い。。。アルデンテにならない。。。輸入品のパスタはなんと一袋$5ドル-6ドルする。
15.南米の中では例外的に蒸し暑い。
16.他の中南米諸国とは同じことを表すのに使う単語がまったく違う。かなりの量の単語が異なるので気軽に訊ける友達がいない今はちょっいとお手上げ気味。(なに喋っとんねんっ!?てなるよ。笑)
17.2017年1月1日よりスーパーでビニール袋の販売を停止した模様。バッグを持参しないと手で持って帰るか?!1ドルちょっとで販売しているショッピングバッグを購入するしかない。(※追記)


まあ、なんかこうやって書き出すと、数の所為で、悪いところの方が多いように思えてくるけれど、実際とても素敵な街ですよ♪
特に旅行で訪れるには(お金掛かるけど)凄く素敵なところだと思います♪

生活するとなると、いろんなことがやや面倒ですけどね。わははははははははははははははははははは


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安倍外交の失敗。 [Argentina 2017]

以下のニュースを読んで欲しい。
問題は中盤部分だ。慰安婦問題「韓国は誠意を」に関わる部分だ。



予算成立に全力、解散考えず=慰安婦問題「韓国は誠意を」―安倍首相 時事通信 1/8
 
 安倍晋三首相は8日放送のNHKの番組で、衆院解散・総選挙について「(2017年度)予算の早期成立に全力を尽くす。その間、解散の『か』の字も頭に浮かばないだろう」と述べ、早期解散を改めて否定した。
 また、「今の仕事に全力を尽くすことに頭は全て占められている。それはしばらく続く」とも強調した。首相の発言は6日に収録された。
 首相は韓国・釜山の日本総領事館前に新たに設置された慰安婦を象徴する少女像について、「(15年末の日韓合意に基づき)日本は10億円の拠出を既に行った。次は韓国がしっかり誠意を示していただかなければならない」と述べ、撤去を求める考えを強調。韓国で年内に大統領交代が予想されることも踏まえ、「政権が代わろうとも実行することが国の信用の問題だ」と述べた。
 日ロ関係では、プーチン大統領と協議開始で合意した北方四島での共同経済活動について「間違いなく平和条約の締結に向けてプラスになる。4島の帰属を解決して平和条約を結ぶ道筋の中に共同経済活動がある」と意義を強調した。
 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣している陸上自衛隊部隊に関しては、「PKO参加5原則が守られていても、安全を確保して活動を満足に果たせる状況でなくなれば、ちゅうちょなく撤収したい」と語った。 

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韓国を責めるより自国の自身の外交のマズさを反省すべきなんじゃないだろうか?

世界を目撃者にして正式に事実を認め、謝罪し、補償金を支払えば終わったろう話を、韓国政府筋と"密室談義とも呼べる合意"を取り付けて(韓国)国内問題を相手任せにしてしまったことのツケに他ならない。

これは問題をできるだけ曖昧な形で処理しようとした95年から始まった"アジア平和国民基金"と同じく、いや、それ以下の発想でと言ってよく、まったく当時の経験が活かされていないことによる。

さらに言えば、そもそもどんな形であれ、責任を認めて謝罪・補償をすることと、慰安婦記念碑の撤去とは寧ろ相反する行為でしかない。事実があったと認めるなら当然、犠牲者の記念碑を撤去するのではなく、寧ろ、日本政府がそれを建立すべきであったりするはずだ。その辺の問題理解の仕方もおかしいとしか言えない。
日本政府が然るべき韓国国内の場所(神社・仏閣等)に、慰安婦の碑を建てることを提案して、結果的に大使館前の碑を移設するとかそういう形で処理されるべきものだ。
日本国内問題と同じように、国民の合意不在で、密室談義で解決が図れると踏んだところにそもそもの問題がある。

今さら10億円払ったのだからそれはおかしいと文句を言ってみても始まらない。
そもそもが世界に向けて、日本政府はちゃんと事実を認め、謝罪し、補償金を支払い誠意を尽くしましたよ、と発信してみせる必要があるのだ。
その為のお膳立てさえ必須なのだ。
これはもはや2ヶ国間問題ではないというのに、そこにも読み違えがある。

以前にも書いたが、日本政府は戦後これまで一度足りとも独自外交を繰り広げた経験がない。
すべて主に米国の、或いは国際社会の動向に合わせて、いずれかに従うような形で外交を執ってきた。だから本当に外交音痴なのだ。
外交の何たるかを、トランプ氏と同程度にしか理解していないだろう。

しかも首相は安倍晋三だ。よりにもよって、もっとも低能で幼稚な首相だと言っていい。
そしてさらに同類と呼ぶしかない国民の群れだ。

この問題で韓国を責めることは容易い。誰にでもできる。けれど問題の本質はそこにはない。
日本政府がこれらの問題と真摯に向き合わない限り、この問題は決して解決しないのだ。
しかしこの後に及んでも安倍晋三の外交失策を取り沙汰する声はあまりに小さい。。。

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"投稿真実" (脱真実という誤訳) [Argentina 2017]

本当に書くべきことは尽きない。。。

最初に巷に出回っているテーブルマナーの図を見て欲しい。
きっとすでに見たことのある方もいるかも知れない。
わたしが初めてこういう図を見たのはもう随分前のことだ。
そして再び、目にしたのは先週の金曜日、Colombiaの一流ホテルのシェフである友人がシェアしていた。。。
 
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だが、これはデタラメだ。
どっかの誰かがイタズラか、悪意か分からないが、SNSを試そうとでもしたのか、フザケテ作った真っ赤な嘘のテーブルマナーだ。

けれどあっという間に、人々の間でシェアされて、もうほとんど真実に近くなりつつある。
たくさんのイラストや写真が多くの人たちによって作られ、配布されている。
一流ホテルのシェフがシェアしたりしたら、もうほとんどの人々がそれを信じてしまう。

どこかで止めなければならないと思い、下の図を作ってFacebookに載せてみた。
だが友人たちは"いいね"をつけたけれど結局誰もシェアしていない。
嘘の方が強いということだ。
本当にこれがいつか真実になる日が来るかも知れない。
まあ、たかがテーブルマナーだ。テーブルマナーくらい時と共に変化するものだ。
だが、こういうことは恐ろしいほど沢山、ネット世界に満ち溢れている。。。
それはどうでもいいとは決して言ってはいけない。
 
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そんな中、下にリンクしたような記事が出た。。。
内容に問題があるのでここには全文は転載しないけれど、Linkを読んで頂くといい。

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“嘘のニュース”が世論をつくる? 米大統領選で注目集めた「脱真実」 THE PAGE 1月7日
 
 ドナルド・トランプ氏が1月20日にアメリカ大統領に正式就任する。そのトランプ氏が当選した昨秋の大統領選挙で一躍注目を集めたのが、不確定で誤解を意図的に招きやすい情報や明らかな偽ニュースが拡散していく「脱真実(post-truth)」と呼ばれる現象であった。ねつ造された情報がインターネットの保守系のサイトが取り上げることで注目され、それがソーシャルメディアを通じて一気に広がっていった。「脱真実」現象とその今後について考えてみたい(上智大学教授・前嶋和弘)

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...という記事だ。
記事の中身はわたしが上で危惧したようなことが起こりつつある現実をテーマにしている。
だが問題は別のところにある。。。

まず、多くの読む人の頭に、最初に引っ掛かるのは"脱真実"という言葉だろう。
"脱真実(post-truth)"

なんとなく違和感を感じる人もいるかも知れない。
わたしは違和感のあまり、読むのが止まってしまった。

おかしい。。。どこかおかしい。。。

post-truth ... なるほど、そうか?! 
よく我々は、ポスト安倍晋三だとか、ポスト・コルトレーンだとか言って、その後継者となる人のことを表現する。
その地位(post)を引き継いだり、或いは取って代わる者のことをpostという接頭辞をつけて呼ぶ。

この場合もそういう風に解釈されている。。。ん!?
"真実"の後を引き継いだり、"真実"に取って代わるような情報のことを"脱真実"と呼んでいいのか??
"ポスト原発"は確かに、原発に代わる燃料のことで"脱原発"と表現することもあるやもしれない。。。まあ、多分、"脱原発後"という言葉の方が正しい翻訳だとは思うが。

だが、そう考えても違和感は消えなかった。。。そして次の瞬間、違和感の正体に気づいた。

バカげてる!

ここで使われているpostは接頭辞のpostではない。
ここでいうpostは、もっと単純に郵便ポストのポスト、投稿されたという意味だ。
だから正しい翻訳は"脱真実"ではなく、単に"投稿真実"だ。

そう読み変えると違和感なく記事を読み進めることが出来る。
どうぞ、改めて"投稿真実"と置き換えてお読みください。
ここで最大の問題はこれが単なる翻訳ミスとして流してはいけないということにある。

ひとつはこのyahoo記事には例によって、270もの読者コメントがつけられている。
だがどれひとつとして"脱真実"の語に疑いの目を向けた者がいないという事実だ。
それどころか、皮肉にもこの記事で書かれているように"脱真実"という誤訳が、コメントの中に堂々と頻繁に使われている。
もはや簡単に"脱真実"という単語が市民権を得てしまったかのようだ。
これは本当にこの記事の内容と照らし合わせると喜劇のようだ。

誤訳がネットに拡散することで市民権を得て、定着することを実現してしまいそうなのだ。


しかも、だ。
この記事はただのジャーナリストによって書かれた(翻訳された)記事ではない。
これがただのジャーナリストの手になる翻訳なら、きっとわたしはスルーした。
けれど、これはスルーできない。
なぜなら、この記事を書いたのは、上智大学教授・前嶋和弘という人物だからだ。
マジでバカげてる!!

記事末に付記された略歴によると、

上智大学総合グローバル学部教授。専門はアメリカ現代政治。
上智大学外国語学部英語学科卒業後,ジョージタウン大学大学院政治修士課程修了(MA),
メリーランド大学大学院政治学博士課程修了(Ph.D.)

とある。ホンモノの専門家だ。
ホンモノの専門家でなければならない。これはミスなんかじゃない。
ミスとは呼べない代物だ。
単に語学としての英語の専門家であるだけでなく、アメリカ現代政治の専門家だというのだ。
別のネット検索によると昭和40年生まれ、わたしの4つ下だ。最近の若者ではない。

申し訳ないが、本当に酷い。
誰か教えてあげてくれ。

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女性の社会進出に求められるもの。 [Argentina 2017]

世の中には女性であることのコンプレックスから、"男性のさらに上を行かなければ"という動機で、過激化する者がいる。

例えば、自民党女性議員のほとんどが男性以上の極右的発言を積極的に行おうとするのもその所為だと考えられる。都知事だって同様だ。
他方にはさらに自身の出自コンプレックス(国籍問題)を加重して右へ右へと旋回する民進党代表もいる。

だが女性の社会進出というのはそういうものではない。
決して"女性らしく"という意味ではなく、男性とは別の社会的生き物としての視点とビジョンの実現を目指す人々が求められている。

それは多くの人たちが勘違いしているような出産とか子育て、介護とかいう問題意識ではない。女性議員にそういう課題を掲げさせようとする試みには断固NOと言うべきだ。それは女性をそういう問題に閉じ込めようとする試みだ。
或いはそういうものを自身の公約として掲げる女性候補者がいたとしたら、そんな候補者は否定すべきだ。
それはスポーツ振興を掲げるプロレスラーやオリンピック選手とまったく同じ構図だ。(※ありていに言って中身がない)
それらが重要でないというのではない。だがそういうピンポイントの政策アイデアを自身の主要な公約に掲げるような女性候補者はその時点ですでに男性社会に呑み込まれている。いっそ操られていると言っていい。思うがままに動かされている可能性が非常に高いか、それしか知らないか、だ。

求められるのは国政、外交、財政などすべてに関する"男性とは異なる社会的生物としての"女性の視点とビジョン、そして行動力だ。

男性が目指すのと同じベクトルの、さらに上なんぞ誰も望んではいないのに、すでにある既存の男性社会に呑み込まれると、男性との競争という視点に捉われ、女性であることを見失い、女性というアイデンティティアイデンティティをかなぐり捨てて、さらに男性の上を行かなければという発想しか思い浮んで来なくなるのだろうか?

"男性社会に任せておいてはダメなのだ"という女性としての自負、自覚が求められている。
それが決して女らしさではないのは言うまでもない。
"女らしさ"なんぞどうでもいい。けれど女性としての視点だけはなくしてはならないはずなのだ。

社会進出を果たすことで、"男"になるなら、そんな"女"はいらない。

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仕事決まりました♪ [Argentina 2017]

そんな訳で、粘った甲斐あって、まともな仕事見つかりました♪
給料はそんなに支払えないという先方からの提案で、週4日勤務というラクチンパターン♪
もちろん、これまでBuenos Airesで提示されたどのレストランよりも給料はいい♪
どうせ、出来れば週5日間しか働きたくなかったので(ホラっ、もう齢だからさ。笑)、週4日でこの金額なら悪くはない。(金額は言いませんよ、笑)
いずれ必要があるなら週5日働いて、もう少し稼ぐこともできるだろうし、写真やデザインの仕事も別枠で稼げるかも知れない。
面白いのは、いずれ基本ができたら、好きなようにスケジュールを組んでいいらしい(笑)。8日間連続で働いて1週間連休取ってもいいよ、と言われた。わははははは マジか!?
 
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※奥に見えるのがレストラン。
 

さて、わたしの仕事は調理を教えること。
レストランは素晴らしい立地と構え。。。というのも実は、Buenos Airesにある立派過ぎる日本庭園の中にあるレストラン。
なので、経営は個人ではなく、アルゼンチン=日本文化財団。レストランはその立派すぎる景観のおかげで、それなりに流行っている様子。
そんな訳で管理者たちがいっぱいいて、よくまあ、今回の話がまとまったものだと思う。(笑)
管理者たちは日系移民の子孫のようだが、みんな日本語はほとんど話せず、調理について知識がある訳でもなく、もちろんシェフでもない。
だからこそわたしが必要な訳だ。
厨房には4世くらいの若い日本人が一人いるだけで、あとは日本食ではないまったく畑違いのレストランを渡り歩いてきたアルゼンチン人たちが働いているだけだと言うから驚きだ。レシピはインターネットと移民二世、三世たちの家庭の味。そりゃ大変だ。
だから実際のところ、料理写真を見たが日本レストランとは名ばかりで、まったく別物の料理を作っている。
こういう時、いつも頼りにされるのが日系ペルー料理レストランで働いてきたというコック。。。だが彼らは本当に日本料理のことは何も知らないので余計に混迷してゆく(彼らは自分たちは日本食について知っていると思い込んでいるので、いつも大変面倒なんです)。。。多分、ひとりはそういうのがいるはず。問題はその彼とうまくやれるかどうか、だ。わははははは

そういう訳で、わたしに日本料理のレシピと調理を教えてやって欲しいという依頼。
ありがたいのは、こういう依頼はハッキリ言って、辞めやすい♪ わははははははははは
いつでも自由に動ける♪ 
もちろん、やるべきことはたくさんある。
もうホントにどの料理を見ても、アルゼンチン風??ギョーザなんかも形すらエンパナーダ(カルツォーネ)の形で笑ってしまう。
天ぷらも酷ければ、エビフライさえ、なんじゃこりゃ?という代物。
寿司は言うまでもないが、寿司はどこもこんな感じだから、あと回しだな。わはは

ともかく1月15日から2月3日までバケーションでレストランを閉めるらしいので、わたしは休み明けから働くことになっている。
まだしばらくわたしのバケーションは続きます。わはははははははははははは
 
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そそ、余談だが、アルゼンチンに日系移民というのは余り聞いたことがなかったのだが、なんとwikiによると2006年時点で"2世以降の日系人が23,000人、日本国籍保有者が11,692人"もいるらしい。びっくり!多くは沖縄や鹿児島県出身の方々らしい。そう言えば、もう一店舗の経営者は沖縄出身の3世の方だった。さらにはパラグアイなどに移民した日本人の子孫がアルゼンチンへ移住してきていたりもする。



さて、そんな訳で、次の問題は住まい。。。
現在の快適な住まいは前にも書いたと思うが、2月15日までの契約。
オーナーが舞台俳優で、離婚して嫁子供に出て行かれて、ありあまるスペースで小さなテアトロ(劇場)を作りたいらしい。
現在は彼の実家のあるMar de la Plataで公演をやっているが、2月15日には戻ってきてここを改装し始めるらしい。
現在の住まいは近くに4軒ものスーパーマーケットがあって、生活するにはとても便利なのだけれど、新しい職場からはちょっと遠い。
夜遅くなるし、もう少し近い場所で物件を探したいのだが、これまた大仕事。。。ひー。。。



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Goodbye Mr.Obama [Argentina 2017]

ここ連日Facebook上では、オバマ夫妻詣出が散見される。
言っておくが、わたしは別にオバマ氏やミッシェル夫人を個人的に嫌いな訳ではない。
実際のところ一緒にお酒を呑んだ訳でもないのでよく知らない(笑)。
VIDEOで見る限り、ミッシェル夫人はとても快活で、素敵に見える。
けれど、話は別だ。別の側面の話だ。。。

オバマ氏は米国史上もっとも何もしない大統領だったが、在任中の不人気と手のひらを返したように、称えられ、ミッシェル夫人と共に伝説になりつつある。
ミッシェル夫人に至ってはまるで次期大統領選に出馬でもするかのような取沙汰のされようだ。

オバマ氏は史上初の黒人大統領として、当初から平和の大統領、汚点なき大統領として米国史に残ることを目指していた。
もちろん、リビア空爆とシリア内戦に関して彼は無実ではあり得ない。

けれど常に消極的参加姿勢を打ち出そうとしてきた彼は、どちらかというと何事にも中途半端だったきらいがない訳ではない。
鳴り物入りだったアフガニスタン撤退も果たせないままに終わった。
アフガニスタンにしても、イラクにしても、彼は結局のところほとんど何の成果も残せず、姿勢を示した程度に終わっている。

パレスチナ中東和平に至っては、米国大統領史上、もっとも何もしなかった大統領と呼ばれることだろう。
イスラエル寄りの姿勢を示したかと思えば、終盤にイスラエル入植批判の発言をしてみせることでバランスを取ろうとしたかのようでもある。

実際、彼は黒人初の大統領という軛を担っていた。
どうしても汚点を残す訳にはいかなかったというのが彼の本心だろう。

おかげで彼は今、伝説と化しつつある。
もちろん、それがトランプ氏のおかげでもあるのは皮肉な話だ。

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