SSブログ

超法規的殺人支援!? [Argentina 2017]


最初のニュースは下のようなものだった。。。

--------------------------------------------

首相、フィリピンでドゥテルテ大統領と会談   日本テレビ系(NNN) 1/12

 フィリピンを訪問している安倍首相は、ドゥテルテ大統領と会談した。フィリピンのマニラから松永新己記者が伝える。
 3度目となる両首脳の会談は和やかな雰囲気の中で行われ、中国が強引な海洋進出を続ける南シナ海の問題について法の支配の重要性を改めて確認した。
 安倍首相「本日の会談では、基本的価値や戦略的利益を共有するパートナーである両国が、この地域の安定と平和のためにともに手を携えて協力していくことを確認しました」
 南シナ海の問題について安倍首相はまた、「地域の平和と安定に直結する国際社会全体の関心事項だ」と指摘した。その上で、両首脳は法の支配や紛争の平和的解決の重要性を確認した。
 また安倍首相は、フィリピンに対し今後5年間で1兆円規模の経済協力を行っていくことを表明した。このあと、安倍首相はドゥテルテ大統領の地元、ダバオを大統領とともに訪問し、さらなる信頼関係の構築を図りたい考え。

--------------------------------------------

これを読んですぐさま、わたしはFacebookに以下のように書き込んだ(原文まま)。



さすが安倍晋三!!  世界が非難する超法規的殺人執行者、ドゥテルテ大統領とその話題には一切触れずに、友好を温める!! 
そしてどんな皮肉か知らないが、そんなドゥテルテ大統領と"法の支配や紛争の平和的解決の重要性を確認"したらしい!?
何を確認したって??はあ??
さすが超法規を目指す同胞って感じっすか??


半日後、もうひとつ同じニュースが飛び込んできた。今度は書き方が違う。
先に進もう、上に書いたことを訂正することになったからだ。

--------------------------------------------

安倍首相、比大統領と会談 麻薬対策で支援申し出   AFPBB News 1/13
 
【1月13日 AFP】フィリピンを訪問中の安倍晋三(Shinzo Abe)首相は12日、首都マニラ(Manila)でロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領と会談した。安倍首相は会談後、ドゥテルテ氏が推し進め物議を醸している麻薬撲滅戦争関連での支援を表明した。
 安倍首相による2日間の訪問は、昨年のドゥテルテ氏就任後のフィリピンで初の国家首脳訪問で、同国の貿易相手国および経済援助国としての日本の重要性が改めて強調された。
 ドゥテルテ大統領はまず、大統領宮殿で安倍首相を歓迎。その後、麻薬撲滅戦争に関わる支援を取り付けた。この政策では約6000人が死亡しており、超法規的な殺人の横行に対する懸念が生じている。
 安倍首相は会談後の会見で「違法薬物対策については、フィリピンと手を携えて、有意義な支援策を考えていきたい」と表明。関連施設の整備や治療プログラムの策定などでの支援を約束した。
 これに対し、これまでバラク・オバマ(Barack Obama)米大統領や欧州の政治家らからの麻薬撲滅戦争への批判に反発してきたドゥテルテ大統領は、安倍首相からの関連支援の申し出への謝意を強調した。
 両首脳はまた、中国との領海問題についても協議。ドゥテルテ大統領によると、海洋安全保障の強化について話し合ったという。(c)AFPBB News

--------------------------------------------

驚きだった!

これによると、知らぬ顔どころか、麻薬撲滅戦争という名の下に超法規殺人を推し進めるドゥアルテ大統領の行動を支援するというとんでもない話だ!

それが最初のニュースで扱われた、"法の支配や紛争の平和的解決の重要性を確認"という文言を発表したということか!?
そんなごまかしは国際社会には通用しない。
まずもってドゥアルテが(本心から)それに合意したなんてあり得ないからだ。
安倍晋三が述べた"まあ、やっぱりね、法律を守りながらね、平和的な解決をね、図ってゆく必要があるとね、いうことでいいですよね?"程度の希望的発言をもって"確認した"と発表した訳だろう。
ドゥアルテはいつだって適当な返事や発言をし、その場をごまかすが、そんなこともう世界はとっくに知っている。(オバマ氏とのやり取りは有名だ)
況してやどんなに"合法的対策を確認した"などと装ってみても、"ドゥアルテの麻薬戦争"に対する支援を約束なんてことは国際社会は決して認めないだろう。
安倍晋三の外交音痴は本当に酷すぎる。
次にドゥアルテ大統領が国際社会から断罪される時、安倍晋三は連座しなければならない。

現政府は"共謀罪"なるものを制定したいらしいが、超法規的殺人を推進するドゥアルテ大統領に麻薬撲滅戦争を"合法的にやってくださいね"と確認したとごまかして、支援を約束した安倍晋三氏には、国際刑事裁判所ICCにて"人道に反する罪の共謀罪"に問われて頂きたいものだ。

nice!(0) 
共通テーマ:旅行

友人たちに頭を下げてお願いする。。。 [Argentina 2017]


友人たちへ。

-----------------------------------------------------

内閣支持率67%に上昇、JNN世論調査    TBS系(JNN) 1/16

 安倍内閣を支持する人は先月から6ポイント増えて67%となり、2013年11月以来の高い水準となったことがJNNの世論調査でわかりました。
 安倍内閣の支持率は、前の月より6ポイント上がって67%、不支持率は前の月より5.1ポイント下がって31.5%でした。支持率が67%を超えたのは、2013年11月以来となります。
 安倍内閣を「支持する」理由については「安倍総理に期待できる」と答えた人が先月より4ポイント増えて32%と最も多く、次いで「特に理由はない」と答えた人が27%、「政策に期待できる」と答えた人は先月より6ポイント増えて22%となりました。
 天皇陛下の退位をめぐる政府の有識者会議で今月23日に今の天皇一代に限って退位を認める特例法を中心とした考えを示す方向について聞いたところ、「賛成」は82%、「反対」は12%でした。
 また、政府内で2019年の1月1日に皇太子さまが新たな天皇に即位し、新たな元号を適用する案が浮上していることについては、85%の人が「賛成」と答えていて、「反対」と答えた人は8%でした。
 韓国・釜山の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたのは日韓合意に反するとして政府がソウル駐在の大使らを一時帰国させたことについて、政府の対応を「評価する」と答えた人は76%、「評価しない」と答えた人は14%でした。
 今月20日にアメリカの次期大統領にトランプ氏が就任することで世界情勢がどうなっていくかについて聞いたところ、「悪くなる」と答えた人が56%と最も多く、次いで「変わらない」と答えた人が29%、「良くなる」と答えた人は4%でした。
 各政党の支持率は、自民党が先月より4.2ポイント増えて38.7%に、民進党、公明党、共産党、日本維新の会、社民党は、それぞれ先月よりも下がっています。(16日04:13)

-------------------------------------------------------



友人たちへ。
この数値がどれだけ正確な状況を反映しているものなのかは分からない。
けれど、わたしが少数派であることだけは間違いない。

そんなこと分かり切ったことじゃないか。
生まれてこの方、わたしはずっと少数派だった。
小学校時代から現在に至るまで、自分が多数派に位置していたことなど一度もない。
好きな映画や書籍、音楽、絵画などという趣味ひとつ取ったって少数派だ。わはは

だからわたしの政治的立ち位置が少数派であることはまったく不思議ではないし、寧ろ自明のことなのだ。
わたしの友人たちの中にもきっと大勢の安倍晋三支持者たちがいるのだ。
消極的支持者だったりするかも知れないし、無関心派だったりするのかも知れないが、少なくともわたしの側にはいない訳だ。

どのくらいだろう?
それを知る方法はある。手掛かりはある。

例えば、わたしのFacebook上には350名の友人がいる。
但し、大半は外国人なので、数えてみたら日本人は106名だけだ。
しかも15,16名くらいは半年以上ログインさえしてなさそうだから、90名程度だと考えるべきだ。
そこで昨年の9月まで遡って、わたしのFacebookの投稿に"いいね"をしてくれた最大数を調べてみた。
年末にupしてみた20年前の"サンタクロースの扮装写真"で日本人の友人たちの"いいね"が最高値の30名だった。
他の投稿をみても日本人の"いいね"は22-24が最高値だ。

まあ、多少の顔触れの入れ替わりはあるから半数くらいは余力があると読んでいいだろう。
だから暫定値だが、わたしの投稿を読んでリアクションを取るような友人たちは90名中、45名だと考えていいんじゃないだろうか?
それ以外の半数の友人たちは、そもそも"いいね"をつける習慣を持っていないと考えてもいいだろう。
最大値で90名中半数の45名が、わたしの投稿に"反応する可能性のある友人たち"の最大見込み数だということだ。
これが分母だ。


さて、ではわたしの政治的な投稿に限ってみると、"いいね"をつける友人たちは、大体常に同じ顔触れで4名ぽっちだ。
顔触れを足してみても6名ほどでしかない。
おまけに米国の、分かりやすく言えば、トランプ氏に関する投稿だと、同じように政治的なコメントでも"いいね"は最大10名までつく。
やはり日本国内の政治的コメントでは反応が鈍くなる、或いは少なくともこの差の4名は親安倍派なんじゃないかと言えるだろう。

そんな訳であとは割り算だ。わはは

6/45 がわたしの政治的立ち位置に賛同する友人たちの実態だ。
計算するのが怖くなるが、13.3%ぽっちでしかない。
圧倒的な少数派だ。。。

86.7%はわたしの政治的立ち位置に(少なくとも積極的には)同意しない人々だ。
仕事への影響を考慮して同意を見送る友人たちもいるだろう。
その割合は分からない。
だが大して多くはないと考えるべきだ。
寧ろ、無関心が多いと考えるべきかも知れない。

そこからしても安倍内閣の支持率が67%だというのは決しておかしな数字ではない。
逆にそこから演繹してみせるなら、45名中、30名が政府支持者、6名が積極的反対者、残りの9名を仕事への影響で見送る友人と無関心な友人に振り分けられる。

まあ、こんなわたしの友人たちだから、安倍内閣の支持率は50%くらいかも知れない。(ただの希望的観測)
だとしても、なにも変わらない。
この構図が逆転することなんて想像できない。
なにしろわたしの政治的投稿に(アンチ政権に)"いいね"する友人はたったの6名しかいないのだから。。。

これが現実なのだ。
わたしはいつも少数派だし、わたしの現在の立ち位置も疑いなく少数派なのだ。

友人たちに何を期待できるだろう?
何かを期待すべきだろうか??

仕事への影響を考慮して同意を見送る友人たちには、手を挙げるタイミングを決して見誤らないようにとお願いするしかない。
いまだ無関心な友人に対しては、とにかく賛成でも、反対でもいいから、無関心じゃいけないんだ、と訴えるしかない。

反対の立場に立つ友人たちに対して喧嘩を売ってみても仕方ない。
わたしたちは友人なのだ。政治的立場は違っても。。。
だから反対の立場に立つ友人たちに対しては、膝を折ってでもお願いする他ない。
なんなら頭を下げてもいい。
どうかお願いだから、もう一度、白紙に戻って、この問題についていろいろ考えてみて欲しい。
言葉遣いは気に入らないかも知れないか、このblogだって何かの役に立つだろう。
戦争をしたいのか!? いいや、誰だってNoだろう。(それさえも違うならお手上げだけれど)
ただみんな不安なのだ。



◆北朝鮮が核開発している。大陸弾道弾を成功させた。日本は北朝鮮の核弾頭ミサイルの射程距離内だ。金正恩はキチガイだから何をするか分からない。。。そんなデマとも真実とも分からない情報に不安を覚えているのだ。だから武装しなきゃならん。攻めて来られたら自国を守るのは当然じゃないかっ!。。。そういう理屈だ。
一見どこも間違っていない。。。もしそういう事態が起こりうるならば、だ。
だが日本が武装しない限り、そういう事態は起こり得ない。本当に起こり得ないのだ。
北朝鮮は日本など相手にしてられないのだ。目の前に韓国という敵がいるのに、日本を巻き込むなんてさらにバカげたことなのだ。
日本に一発でも打ち込むミサイルがあったら、彼らは韓国国内へそれを発射するだろうって単純な事実だ。
米国に打ち込むなんて妄言は相手にする必要はない。
米国に(沖縄米軍基地に)一発でもミサイルを発射した途端、北朝鮮は1日で滅ぶだろうってことだ。兵士たちが死ぬまで戦うなんて考える方がどうかしている。彼らは喜んで敗戦を受け入れるだろう。
そもそも、一発のミサイルの精度=被害状況は驚くほど軽微だ。イスラエルからパレスチナへ発射されるミサイルによる死者はゼロから5名程度だ。
ちなみにパレスチナの人口密度は東京より遥かに高い。そういう事実がすべて覆い隠されて不安だけが煽られているということだ。
核弾頭なら?? そもそも核開発はイラクでさえ嘘だったのだということを思い出す必要がある。核実験??
北朝鮮を買い被りすぎている。すべての情報は米国諜報部からもたらされているという事実を知っているかい??
韓国も日本政府も、我々はどんな独自の情報も持ち合わせてはいないのだ。もし核弾頭があったら、それもまた金正恩は韓国へ打ち込むだろうし、もし海を越えて沖縄の米軍基地を狙っても、おそらくは決して届きはしないだろう。それはとても高度な精度を要求される至難の業なのだ。
そもそも開戦後、直ちにミサイル発射台は破壊されると考えていい。
最初の一発がいきなり核弾頭で沖縄?? そんな戦略は存在しない。


◆日本の安全保障は米国との絆によって成立している。。。その米国が世界の平和と民主主義を守る為に、世界各地で戦っているのに、同盟国である日本はただ影に隠れて守ってもらっているだけでいいのか!?そんなことか永遠に続くと思っているのか!?。。。対等なパートナーシップを発揮してこそ、経済政策でも日本は米国と対等に交渉し、ロシアや中国に対しても独自の外交政策で強気の交渉をする必要がある。。。その為にはどうしても日米安全保障のバランスを対等にもってゆく必要があるのだ、と。。。
それは本当なのか?? 米国がやっていることは、世界の平和と民主主義を守る為なのか??
寧ろ、米国と共にイスラームと戦うことで、国内にテロを呼び込むことになりはしないのか??
イスラームと戦って、その闘いにいつか終わりが来る、米国の、キリスト教世界の勝利でイスラームが屈服し、消えてなくなることがあると本気で考えているのか??
そもそももはや日本経済は空洞化していて、世界の大国と対等に渡り合う中身を何も持っていない。我々はいまだに幻想に生きているが、日本は経済的主導権を活かせるどんな武器も持ってはいない。なにもないのだ。
 最先端技術?? 技術で国家経済はどうにもならないって知っているかい?? パテント(特許)のことだ。国家経済は物量的な実態に支えられないとどうにも改善できないのだよ。世界の市場はもはや完全に中国のものなのだ。それを否定する事実はどこにもない。世界中に中国製品があふれていて、日本製品のシェアはもう瀕死の状態だ。日本はもはや輸出するものを何も持っていないのだ。国内に工場を作って、労働者を確保して、しかも安価な製品を作らなければならないのだ。そんなシステムは日本国内には存在しない。いいモノ、高いモノを少し作っても何も変わらないのだ。経済で大国と肩を並べるなんて言う前に、国内をきちんと見つめなければならない。
 
 
 
◆中国が海洋支配を強めている。日本の固有の領土である島々を中国の侵略から守らねばならない。
その為には日本が武装して、必要なら核武装してでも、世界の大国として米国と肩を並べて、断固とした強い態度で中国の領土侵略を守らねばならない。無人島を明け渡せば、次は沖縄が侵略される!
そもそも日本固有の領土って、誰も日本人の住んでいない、無人島が戦争の危機を招いてまで重要なのはなぜだ!?
200カイリ問題が起こるまでなにも問題ではなかったのだよ。ただ漁業権の守る為に、漁業組合の票を買う為に政府は無人島の為に戦争の危機を受け入れようとしているのだ。漁業権の交渉をすればいいのに、それは弱腰だと非難されるのが怖くて、誰も本当に必要な漁業権の交渉をせずに、ひたすら交渉する課題はないっ!と交渉そのものを拒否して、どんどんと追い詰められつつあるのだということを分かって欲しい。
次は沖縄?? そんなことが本当に起こると思っているのかい?? ハリウッド映画か、漫画の読みすぎだよ。或いはゲームのし過ぎかな??
北方領土問題ももっと早くから二島返還だけに焦点を絞っていたら、可能性はゼロじゃなかったろう。けれど日本政府は弱腰と非難される(北海道を地盤とする自民党政治家たち)のを恐れて誰もその交渉をしなかった。そうやって返って、この状態を固定化させ、既成事実化を助けてきたのだ。
これだって、いっそ漁業権の交渉を行うこともできたろう。けれどそうやって時間が経過する毎に、事態はどんどん日本の手に負えなくなってしまっているだけなのだということに気づいて欲しい。

 
 
わたしがわたしの友人である君に、頭を下げてでもお願いするのは、決してわたしの為ではないということは分かってくれているよね!?
わたしは日本には2度と帰らないから、わたしには子供もいないから、わたしはもはや家族とはどんな連絡も取っていないから、わたしはこの世界とおさらばしたいと願っている訳で、わたし個人にとっては日本なんてどうだっていい。 未来なんぞどうだっていいのだ。
けれど、わたしには君たち友人たちと、きみたちの子供たちがいる。
わたしが頭を下げるのは、おかしなことに、君たちの為、君たちの子供たちの為、きみたちの未来の為なのだ。
そんな遠い未来のことではない。目の前の5年、10年の話をしているのだよ。
きみたちが選択を誤れば、5年-10年以内に日本は戦争に巻き込まれ、きみたちの子供や孫が戦地に赴き、人を殺したり、殺されたりするのだ。
国内ではテロが起き、人々は疑心暗鬼になり、人種差別が横行し、きみたちの子供や孫は犠牲になるか、加害者になるか、いずれにせよ社会の混乱に巻き込まれるのだ。
治安が改善するはずもなく、経済が好転するはずもない。それは当たり前のことじゃないか。
海外で戦争に携わり、国内でテロを抱え、人種差別や外国人排斥運動が高まり、国内の治安がさらに悪化し、銃器がこれまで以上に氾濫し、戦地から帰国した者たちは銃器の扱いと使用に長けている。。。そんな状況で経済が好転するはずがない。人口はひたすら減少し、若者たちが数少なく、老人たちがひたすら増え続ける。。。
そんな未来に一番必要なものは、真の平和と社会の安定なのだ。
安倍晋三への支持はそれを失う為の大きな一票となるだろうということだ。 






nice!(0) 
共通テーマ:旅行

カメラ盗まれるの巻!! [Argentina 2017]

あ~あああん、いやんなっちゃった、あ~ああん、驚いた。

...とそんなこんなでアレです。日曜日、一眼レフカメラとパスポート盗まれました。。。ひーん。。。だよーん。。。
バカみたい?? わははははははははは
笑うしかない。

そそ、事の起こりは、金曜日、コロンビアのレストランKABUKIの会計士だった女性Maryから突然、Facebbokにメッセージが届いたことから始まる。
どうやらバケーションで、兄弟と共に、アルゼンチンに住む従兄を訪ねて来たらしい。17日まで滞在していると言う。
だもんで、別に特別仲が良かった訳でもないが、ここはラテンアメリカ、こういう時は逢ってお酒でも飲むのが筋というもの。
そんなこんなでわたしたちは日曜のお昼の待ち合わせ。
まあ、さすがコロンビアーナ、40分は遅れてきた。わはははははははははは
しかも男連中はダラダラしてていつまで経っても起きて来ないので放ってきたと彼女ひとり。
まあ、どうせ他のふたりは知らないし、わたしはどっちでもいい。

...とその前に、どうしてもわたしは両替する必要があったことを書いて置こう。ドルからペソへの両替だ。

IMG_0126.jpg

IMG_0125.jpg
※写真は別の店。以前撮ったもの。こんな感じの店が至るところにある。

で待ち合わせて、取り敢えずワインでも一杯飲もうということに。
近くに素敵なハムとワインの店を知っているのでそこへ♪
ハムの店と言っても日本じゃそんな店ないから分からないよね??(笑)
生ハムやサラミ、ハム、ソーセージ、さらにはたくさんの山盛りのチーズなどがショーウィンドウいっぱいに置かれていて、もちろん、そこで購入して帰る人もたくさんいるし、その場でやはり同じように所狭しと並べられているワインを注文してテーブルで食べることもできるというなんともおしゃれな店♪
ふたりでつまみを食べながら楽しく盛り上がる。
カメラを入れたリュックはちゃんと両足の間に置いた。。。ただ椅子が高くてバッグに触れたり触れてなかったりといって感じだった。。。
もうお分かりのように、お会計の時になってリュックのないことに気づく。。。
やられたっ!! 

もうすぐに諦めましたよ。わはは
1秒できれいさっぱり諦めた。。。もう絶対に出て来ないから。

で、一応、レストランで監視ビデオを見せてもらうことに。
4人組が入ってきて、本当にたった1秒でわたしの足元にあったリュックを反対側から盗んでそそくさと出て行った。。。芸術的な仕事ぶりだ。
ホンモノのプロって感じだ。。。
わたしはまったく気づかなかったが、もし気づいていたら4人組だから必ず誰かはナイフか、ピストルくらいは持っていただろうと警察で言われた。

そんな訳で、2年半前に買った一眼レフカメラと両替の為に持っていたパスポート、さらに一眼レフを出すのが面倒臭い時用にと持っていたSonyのデジコンカメラも。。。ひー。。。マジで?? カメラないやん?

すっかりやられちまいました。。。
一応、古いカメラがあるからなんとかなるか、と思っていたのですが、さすがに2年間まったく使わず、Chileの倉庫に預かっておいてもらったカメラはカビの所為かまったく動かず。。。ミラーなど一通り専用キットで掃除してみたのだけれど、なんとか動いたもののAutoピントはダメ、色合いが完全にセピア色でダメ。。。やっぱりカビなんだろうなあ。

そんな訳でしばらく、いつまで??
多分、カメラを買えるのは5月くらいだろうから、それまで写真なし!! わはははははははははははは
困ったもんだ。
古いカメラの点検、分解掃除も出してみるけれど、さてどうなるか??


あ~あああん、いやんなっちゃった、あ~ああん、驚いた。
カメラなしってマジで困ったもんです。。。とほほ


16128125_10154913543204675_1945238295_n.jpg

盗難後、気分転換にビールを呑み直してるの図。しばらくこれが最後の写真になりそうです。
撮影Mary Luz.

nice!(0) 
共通テーマ:旅行

価値観の画一化と模範教育、洗脳教育の兆し [Argentina 2017]

16143148_913553562113839_242386844648930557_n.jpg

これは小学生の子供を持つ友人がFBにのせたものだけれど、すでに安倍晋三の掲げる"家庭教育"、"教育再生"、"絆"という背後に胡散臭い意図だけが透けてみえる薄っぺらい保守回顧主義が教育現場に忍び寄っている芬々たる臭いがする。
(※彼女はただ単に愛すべき娘のそれ自体はホントに素敵な作文を紹介する目的でupしただけだ。笑)

考えすぎだと言う莫れ、本当にこういうものは気づかぬうちに、足音もなく、徐々に忍び寄ってくるものなのだ。それが国民の、この場合すなわち子供たちの洗脳教育へとまっすぐに繋がっている。

"募集したところ..."とあるが、もちろん、各小学校に通達を出して、授業の一環として全校生徒に作文を書かせて、教師たちが選んで推薦作を提出した訳だ。当然のように、作文の時間の前には教師たちによる"家族の絆"と"いのちのつながり"についてのレクチャーが滔々と繰り広げられ、大抵の場合、具体例として、前年度などの児童による規範的作文が読み上げられる。それ自体すでに価値観の押しつけに他ならず、方向性が定められたものでしかない。

そもそも"家族の絆"と"いのちのつながり"というテーマそのものが不可思議だ。
"家族の絆"などというものは、そもそももう少し成長して、一旦そこから疎遠になったりする時期があって初めて自覚されるものだ。小学生のように"家庭と学校"(家族と友だち)という狭い社会の中で生き、その中から未だに外社会への、或いは外社会かの視点を持ち合わせていない子供たちの手に負えるテーマではない。オトナ目線のテーマだと感じないだろうか?
"いのちのつながり"に至っては何をか言わんだ。いったいこのテーマで何を思い浮かべることができるだろう??もちろん、子供たちは事前に施されたレクチャーに従って作文を書くしかない。翻って、あなたにどんなレクチャーもなしで"いのちのつながり"というテーマで作文を書いてくださいと言ったら??あなたはいったい何を書くだろう?これもまたオトナ目線による恣意的方向性のハッキリした(レクチャーで示される)テーマなのだ。でなければ作文なんて書きようがないことは明らかだろう。

これは文字通り、教科書的な作文を子供たちに求めたもので、それは模範的価値観を強要するものでしかない。
昔からある"みんな仲良く"、"平和な世界"という標語の暗唱と何ひとつ変わらない。

これだけ社会では虐待や育児放棄が問題と化し、貧困家庭が増加し、子供たちの虐めや、或いはオトナたちによる子供への性的ハラスメントなど様々な問題を抱えている中で、子供たちに模範的作文を提出させるどんな意味があるというのだろう?
寧ろ、本気で上に掲げたような問題に取り組む気かあるならば、"わたしたちの周りの暴力について"、"言いたいけど言えない家族の問題"、"イジメと友だち"、"親友の抱える問題"、"家庭でのわたしの役割"など様々なテーマで学年ごとに子供たちの抱える問題のせめて一端をとらえようと試みることだって不可能ではない。
文中の個人名の仮名使用や作文そのものの無記名をうまく使えれば、いくつかのそこから派生してくる問題も解決できるだろうし、また本気で取り組む気があれば、無記名であろうとその子供を特定することは造作もないことのはずだ。

子供たちにお題目の模範的価値観をお仕着せする為に作文を書かせることと、どちらが真に必要なことか考えなくたって明確なことじゃないだろうか?
以前、小学生(高学年)に"世界平和について"というスピーチ原稿を書かせるというのがあった(日本の小学6年生のテキストにある)。スピーチだ、主張のケーススタディだ、子供たちが自己主張を学ぶ課題に於いて、"平和"について自己主張せよというのだ!?
詳しくは繰り返しになるので、興味のある方はリンクをお読みください。






nice!(1) 
共通テーマ:旅行

ペルーにみる社会格差 (資本主義と社会主義の相克) [Argentina 2017]

Limaというのは南米最大のモダンな大都市だ。だが一方で市内にはまだこういう人々の存在が隠されている。

高地(シエラ)に住む先住民の人々の生活は想像するよりずっと恵まれている。
(※もちろん、鉱山地帯は別だ。水質汚染などの公害問題を抱えている。)

けれど、砂漠地帯や小都市近郊に住む人々の生活は本当に貧困を極めている。バスで移動する度に心傷む光景を目撃することになる。。。
Ecuadorから国境を越えてPeruに入ると点在する小さな町を除く広大な領域が乾燥しきった砂漠であることに気づかされる。
少しでも緑が見えてくるとそこには小さな町が建設されているといった具合だ。
けれど砂漠地帯は無人ではない。。。
そこには小さな4畳半もあるかないかの掘っ立て小屋が立ち並ぶ一角があちこちにポツンと見え隠れする。
言っておくが、その道は、パンアメリカンハイウェイ沿いだ。かろうじて電気だけはある。が、水はないし、小屋以外には何も見当たらない。。。
砂漠の中でトタン小屋に住むというのはいったいどう人々なのだろうと首をかしげざるを得ないが、それはひとつやふたつではない。
多くの人々が小さな水のある町から離れて(おそらくは町に住むお金がない為だ)、生活している。

ここにふたつのニュースがある。スペイン語なので、申し訳ないけれど、ニュースの中にあるVIDEOだけでも見てもらえればと思う。

1つめのニュースは首都Limaの貧困層の人々が都市部の10倍の水道料金を支払うことを余儀なくされていて、それは米国の平均的な家庭の水道料金の25倍にも当たる金額なのだということ。最低賃金やインフォーマルな小ビジネスで稼ぐしかない彼らにとっては、水代の為に食事を切り詰めなければならな状態だということ。しかも共同で使うタンクの洗浄に費やす時間やタンク自体の汚染からくる健康上の問題を抱えているということ。
さらには行政は彼らを市民の目から隠す為、彼らの住居の前に3メートルの高さの壁を作って、目隠ししているというニュースだ。

2つめは、同じような境遇にある男性が雪溶け水を使うシステムを開発したというもの。但し、この水は汚染されているので飲用には適さず、男性によれば。それでも野菜などの栽培には適しているので、こういう僅かなシステムでも、各地の貧困層の人々が住む地域に拡大してゆきたいというものだ。

すでに書いたように、このvideoで紹介されている水は衛生的なものではなく、飲料には適さない。けれど少なくとも食料栽培には役に立つと人々は喜び、このシステムを同じように一滴の水も持たない人々に拡大してゆきたいと語っている。。。(※彼らに飲料水公共サーヴィスは一切提供されていない。)
彼らは毎日タンク車が運んでくる水を買わなければならないのだ。

我々は21世紀に生きている。しかもPeruの首都Limaには富が一点に集まっている。本当に豊かな大都市だ。

こういう国で、社会正義の必要性が叫ばれるのは必然なのだ。
だが残念なことにそれを利用するのは、似非社会主義者を名乗るポピュリスタだけなのだ。資本主義を謳歌する我々の側の人間は誰もそこに手を差し伸べない。問題はそこじゃないだろうか?
だから先住民層に対するポピュリスム政治が社会主義を名乗るツラ汚したちによって簒奪されるのだ。

インフラ整備すら手をつけずに都市の中に閉じこもって贅を極める政府が、貧しい人々から見離されるのは当然の理なのだ。
だが南米もまた新社会主義を標榜したポピュリスタ=チャベスの死後、援助を期待できなくなった南米の政治家たちは、エクアドル=コレアの失策を横目に、再び口を、耳を、目を閉じてしまった。。。


社会主義を揶揄する人々は世界中にたくさんいる。彼らが圧倒的多数派だ。
日本でも状況はまったく同じで、反社会主義という旗の下なら99%以上、ほぼ100%近い人々が集うんじゃないかと思えるほどだ。

けれど、人々は完全に忘れている。それかまったく何も知らないか、だ。
もし社会主義革命がなければ、今ある資本主義世界はなかったということを。
社会主義革命の連鎖を恐れた資本主義社会が、人々に少しずつ譲歩し、少しずつ権利を与え、少しずつ妥協することによって、今日の資本主義社会は築かれたのだ。もし社会主義概念がなければ、人々は(というのはすなわち、特別な富裕層の一族でない我々だ)、現在のような恵まれた資本主義社会に生きてなどいないことだけは確かなのだ。
日本でも共産主義や社会主義を弾圧する一方で、政府は妥協し、譲歩し、少しずつ少しずつ人々に権利を与えるふりをして、その行使は程度問題に抑えてきた。それは戦後米国によって、齎された社会主義防波堤としてのシステムだった。そういう経過があって、我々は権利というものを上から教えられ、常に行使には輪っかを嵌められた状態で、義務を最上級に掲げられて、"義務を果たすなら権利を行使していい"という規制された枠の中で、それでもデモを行い、ストを行い、時に基本的人権というものを叫んでみたりして、社会保険や各種社会保障、最低賃金制や労働時間の規定、休日の拡充、有給休暇制度の導入、週休2日制の導入などなど、今日の日本社会にある諸制度が成立してきたのだ。
だが本当のところ、それらは何一つ我々日本人が勝ち取ったものではなく、米国社会で米国市民が勝ち取った権利を同じように導入することで、動乱に先駆けて社会の安定を図っていくのがベストだという判断に基づいていたに過ぎない。
日本人が自由や権利について知らないのは、そして民主主義について何も知らないのは、そういう権利や概念が人々の血によって勝ち取られたものではなく、上から与えられてきたものであることによっている。政府はそれらを与える時に、常にこう言い続けてきたのだ、"義務を果たしなさい、そうすればこういう権利をあげるよ"と。。。だから何一つ我々のモノではなく、常に枠を嵌められたモノでしかないという悲劇がある。

だがそれはともかくも、社会保険や各種社会保障、最低賃金制や労働時間の規定、休日の拡充など等は、決して資本主義が社会が望んで作った訳でもなければ、資本主義の概念の中に社会保障や人権意識があった訳ではないということを忘れている。資本主義概念の中には一切のモラルは存在しない。そもそも資本主義というのは単にシステムであって、何らかの理念を持ち合わせたような概念ですらないからだ。
ちなみに資本主義と民主主義を混同するのもバカげている。資本主義と民主主義は同根概念ではない。それらは寧ろ相反する概念だ。資本主義の中にある社会主義的概念のことを時と場合によって"民主主義"と呼んでいるのだと言ってもあながち間違いではないくらいだ。
だから今になって、社会主義概念を完全に葬ろうとする試みは、人々の生活と社会を後戻りさせることに繋がり兼ねないし、あまりにも無知過ぎる。民主主義があるから大丈夫だなんていう人々は、民主主義が一定の方向性や社会正義を必ずしも約束する理念ではないということを知らねばならない。それは如何様にでも動く可動式の天秤のようなものなのだ。

そもそもカール・マルクスが"資本論"を著した当時の世界は似たり寄ったりでこういう(Limaの貧困層のような)世界だったのだ。
いや、もっともっと悲惨だった。それがマルクスに資本論を書かせた動機だったのだ。彼はモラリストとしてそういう世界に怒りを覚え、そのシステムを告発したのだ。
当然のことが多くの人々によって誤解されているけれど、"資本論"は社会主義についての書物ではなく、資本主義についての書物でしかない。
その後、社会主義、共産主義という運動が世界中を席捲し、社会主義を瀬戸際で押しとどめようとした資本主義側が社会主義的価値観を少しばかり取り入れ、譲歩し、妥協点を探って、今日の世界が成立したのだ。

少し遡って、社会主義が世界中を席捲したのも当然だった。
労働者は基本的な権利を一切認められず、ただ資本家だけがすべての富を独占して富をさらに劇的に増やしつつあった世界に、人類史上初めて無名の人々の"権利概念"を確立し、社会的闘争の必然性を暗示したのだ。
もちろん、それまでも平等は語られることがあったけれど、それは権利ではなかったし、我々主義的な小さなサークル内での平等だけが語られていた訳で、まてや、それは富の平等、価値の平等というものでもなく、無名の貧しい人々とは無縁のものだった。
マルクスはそれまで製造原価しか顧みられなかった製造業の中に、労働原価という価値概念を確立させたのだ。無名の人々の労働にも一定の交換価値があるという現在では当たり前とされている認識を彼が確立したのだ。彼なくして資本主義は労働者に富を齎すことはなかったのだということを知らなさすぎる。

"資本論"はいろいろあって、確かに読み易い書物ではない。特に第一部がこの手の書物に手を出したことのない人々にはとてもとっつきにくいだろう。けれどそれが人類にとって、とても重要な書物であるのは誰にも否定できない。これは社会主義の書物ではない、資本主義について解説した書物なのだということすら知られていないのは一体どういうことだろうか?!(タイトルをみれば明らかなのに、だ。)

もう一度言う...

日本で言えば、99%以上の人々が共産主義や社会主義という言葉に顔を顰めるんじゃないだろうか、それほどまでに両者は"悪"と決めつけられている。
だが人々は健忘症に掛かっているか、或いはまったく知らないのだ。。。
共産・社会主義革命が世界中を席捲したおかげで、自己防衛の必要に迫られて資本主義が社会主義的価値観である社会保険や社会保障、労働条件の改善や最低賃金制度、昇給制度など様々な社会主義的正義(公正や権利)を取り入れてきたのだということを。
もし共産・社会主義革命が世界中を席捲しなければ、わたしたちの今日の資本主義的世界(資本主義的生活)はなかったのだ!
労働者が富を蓄え得る世界は存在しなかったのだ。
資本主義は如何なる道義的価値観も理念も包含しない。それは単なる富の流通と経済システムに他ならない。資本主義は欲望そのものなのだ。
資本主義は民主主義を社会主義的正義(公正や権利)を齎すものとして代用できると試みてきたが、民主主義はとても曖昧で一定の価値観や理念を持たない、どのようにでも傾く可動式の天秤でしかなく、平等や公正は民主主義の根幹にある概念ではない。今日ある我々の資本主義世界はそれらを社会主義的価値観から借りてきたのだ。民主主義は方法論でしかない。そこに理念はない。
だから資本主義が民主主義を頼りに社会主義的価値観の一切を否定することなんて出来やしないし、決してしてはならないのだ。
人々が共産・社会主義を嫌うのは、主にソビエトや東ドイツ、北朝鮮や中国の在り様を見てきたからだ。けれどそれらの国々は共産・社会主義のイデアを実現した国々とは呼べない。それらは歴史上、試みられたいくつかの実験に過ぎず、おまけに資本主義側(米国)の攻撃にあって、さらに歪曲されてしまったものでしかなかった。

共産・社会主義が権力を欲するツラ汚しどもによって、同じように穢されてきたのも歴史的事実だ。けれどそれは理念自体の持つ美しさを否定するものではない。現実の世界はいずれにせよ、愚かな人間たちによって構成されるしかないからだ。
何度も書いてきたように、資本主義と社会主義は切磋琢磨して、両者が競いながらより良い社会を築く為に両立しなければならない。どちらかがどちらかを放逐してしまうようなことがあってはならないのだ。
民主主義は社会主義的価値観を手本にしなければならない。それこそが理念としてのモラルなのだ。民主主義は方法論でしかなく、理念ではないということを認めねばならない。







nice!(0) 
共通テーマ:旅行

ハグしてキスする文化 ... (続・中南米で生活することの価値) [Argentina 2017]



ラテンアメリカと日本。
それを多くの人々がotro mundoと形容する。
"まったく異なる世界"、或いは"正反対の世界"という意味でもある。
ふたつの世界は地理的にもほぼ正反対の位置にあるし、文化的にも、人々の性格的にも本当に正反対だと思えることがよくある。

-----------------------------------

唐突だが、ご存じのようにラテンアメリカでは挨拶としてキスをする。
もちろん、キスと言っても本当にする訳ではない。抱き寄せて相手と頬を合わせて、頬から耳元辺りで"チュッ"というキスの音を立てるのだ。
とっても"いい音"を立てる人がいる♪ わたしにはできないけれど。
"いい音"を聞いた時は純粋に感心する。羨ましく思う。わはははははは
正確にはbesitoと呼ばれるそれは男性と女性、女性と女性の間で交わされる。(キスはBesoという、Besitoとはキスに縮小辞-itoがついた形で小さなものやかわいらしさ、軽度なものなどを表す。)
国によっては男性同士でも交わされることはあるが、それは稀だ。(アルゼンチンやイタリアでは男性同士でもする場合がある)
通常、男性同士は抱擁=ハグと握手までだ。

もちろん、最初は戸惑う。。。
けれどまあ、すぐに慣れる。
最初は特に若くて美人の女性とするのを躊躇ってしまうという自分の中にある可愛さを見つける。わはははははははは
で、最初の頃は、お年寄りとか、ブサイクちゃんとか、おデブちゃんの友達と積極的にbesitoを交わすようになる。(自意識だねぇ。いったい何様のつもりなんだろね!? 苦笑)
だがそのうちやっぱりキレイな若い女性とbesitoしないなんて損だとハッキリ自覚するようになる。わははははははははは
なにがある訳でもなく、何が始まる訳でもないが、やっぱり素敵な人とは距離を縮めたいと感じるし、それを素直に自覚するようになる。
それはとても不思議な経験だ。
日本人にとっては本当に不思議な感覚であり、貴重な経験となる。


そのうち、あることに気づく。
誰か落ち込んでいる人、哀しみのうちにある人に掛ける言葉なんていらないのだと気づくのだ。
そう、ただ抱きしめてあげればいい。
それはとても簡単で効果のある、お互いが素直に優しくなれるおそらくは唯一の方法なのだ。
そして気持ちが伝わる。嘘で抱きしめてもそれはきっと感じ取られてしまうだろう。。。

そういう場面に何度か出くわすと(眺めているだけでも)、"ああ、言葉なんて邪魔なだけだ"と強く実感できるようになる。
ただ抱きしめてあげればいいだけなのだ、と。
それは男女であろうとも決して恋愛感情なんかではない。友情として異性を強く抱きしめてあげることが可能になるのだ。
お爺さんでも、お婆さんでも、若くてきれいな女性でも、ブサイクで太っちょの男性でも、誰でもが他者に抱きしめられることが出来る。
抱きしめてあげることができ、抱きしめてもらう権利があると感じることだろう。
それはありていに言って、とても素晴らしいコミュニケーション文化だ。

おそらくわたしが個人的にラテンアメリカで学んだ一番大切なことはそれだろうと思う。
日本でわたしはとても野暮な男だった。(よく言えば、だ。苦笑)
恋愛中の彼女に対しても面と向かって褒めたりしないタイプの男だった。況してや愛を囁くなんて、こっぱずかしくてそんなバカなこと出来る訳がないと思っていた。ありていに言って、女性に優しくない男だったろう。(酷い男だ。笑)
照れや自意識が女性に優しくすることを妨げていたに違いない。手を繋ぐなんてこともした覚えがない。
いや、女性だけではなく、男女問わず、他者に対して優しく出来ないタイプのホントに野暮な男だった。(小さな子供以外)
そのわたしがこう言うのだから間違いない。
ラテンアメリカ文化の一番素敵なところは親しい人を抱きしめてあげることが素直にできるところだ、と。
難しいだろうけれど、本来はあらゆる国で真似されるべき文化だと思えてくる。
きっと優しくなれるだろう。
きっとわたしもこの10年間で少しは優しくなった。。。と思う。わはは


さて、だが疑問もあるだろう。
えっ!? だって嫌いな奴とでもそんなことしなくちゃいけないの?ってやつだ。わははははははははははは

いや、嫌いなやつとはしない。
それはとてもデリケートな問題を含んでいる。
やり方を心得ないといけないし、お互いがそれを理解していないといけない。
もちろん、それでも公式な場とでも言うべきか、苦手だなと思っていても、第三者に改めて紹介された場などではそれを受け入れるしかないのも事実だ(女性側)。
それほど公的な場でなければ、さっさと手を出して握手を求めることで、キスはしなくていいわよ、と相手に知らせる方法しかない。
だが相手が手を取って、引き寄せればもう諦めるしかない。
だからお互いがそういう雰囲気、空気をちゃんと理解することができるのが理想だ。
そうすればにこやかな会釈や握手程度で儀礼的に済ませることができるからだ。
ああ、普通は頬と頬をくっつけてチュッとやるが、苦手な人の場合はやはり距離を取って、形だけチュッとやることも多い、当然、よそよそしくはなる。わはは
そうだ、強くハグすることもまったく珍しくはない。書かなくてもいいことかも知れないが、敢えて言っておこう(笑)。もちろん、ラティーナの(大抵は)大きな胸が押しつけられる。わははははははははははは
羨ましい??(爆笑)
いや、まあ、いろいろだが、そんなこと意識する女性はいない。
そんなこと意識する男性もいない(いや、きっとちょっとはいるな。笑) 
この距離感は日本人からするとびっくりする以外にない。
ハグをする、頬を合わせてbesitoを交わすというのは、そういうことを意味している。
まったく知らない人、初めて紹介された人とそういう触れ合い方=出逢い方をするということだ。
言っておくが、これは日本人だけでなく、多くの欧米人にとっても違和感のあるラティ―ノだけの特殊な文化なのだ。


さて...だがそれはオトナの場合だ。
子供たちの場合はもう少し残酷な経験を幼少期から積むことになる。

子供たちが学校に行けば、仲のいい子同士ではハグし、挨拶のキスをする(男女の差はない)。毎朝、そして別れ際に毎回だ。
けれど嫌いな子とはもちろんしない。
だから子供たちの中では、オトナのように儀礼的なものではなく、寧ろ"本当に仲のいい子とだけ"するというルールができあがる。
嫌いな人を傷つけない為に、或いは苦手な人とそれ以上気まずくならない為に、ハグとキスをするのは"特別仲のいい子"とだけ、というルールを作るのだ。
そうすれば、少しは棘を和らげることができるだろう。
けれどそれでも片思いが募ったりしてくるとそれはかなり子供たちにとっては残酷な場面もあるんじゃないだろうか、とついつい想像してしまう。わはは

子供たちはそういうことを幼い時から学び身に着けてゆく。
もちろん、オトナになればなるほど儀礼的な挨拶の機会も増えてゆく。
けれどいずれにせよ、家庭では両親から何かにつけて抱きしめられ、また両親や兄弟・親族を抱きしめて育つ。
子供たちは一歩家を出れば、出逢う人々すべてからハグされ、キスされ。キスすることを要求される。。。
それが人間関係の密度をより濃く創り上げてゆくのは当然の帰結だ。
社会全体の人間関係の密度がたとえば正反対の極にある日本とはまったく異なる。
それはとても重要なことだ。単にそれぞれに異なるコミュニケーション文化の形があるのだと片づけていい問題ではない。

社会に於ける人間同士の関わりの度合いがまったく(根本的に)異なってくるのだ。
他者との距離感の違いは様々なシーンで実感される。
正直、それがいい場合も、多少うざったい場合もある。
けれど初対面と人とハグし、キスを交わした後、数日後、街角でふとその人と出逢った時に感じる親しさ=距離感の差はとても大きい。それは無視できないほどに大きい。
ラテンアメリカではよく一度逢っただけでも、もう友達扱いされる、と戸惑うことがある。
もっと言えば、初めて紹介されてもう数秒後には、"amigo友達"と呼ばれるのが普通だ。
最初の頃は"別にオマエと友達ちゃうわいっ"とか思ったりもするのだけれど、慣れてくればこっちだけってそんな気でいることにふと気づく瞬間もある。

肌を触れ合う機会があるということは、本当に言葉だけで何度か逢う機会があるのとは距離感の詰め方が圧倒的に異なる。
嫌いとか、苦手とかいう感覚も握手をし、胸を合わせて抱き合い、耳元でチュッとやるだけで大抵の場合(特に理由のない苦手意識なんかの場合)、それらが氷解することもある。苦手意識という先入観みたいなものが薄らぐ感覚だ。
他者に対する安心感だと言い換えてもいい。(小さな子供の中にはどんなに手振り身振りであやしても緊張感を解かないけれど、ちゃんと触れ合ってみると急に警戒心を解く子もいるように)
よそよそしさがスッと消える。初対面なのに、リラックスできる。
それらは通常、心地よい環境を整えるのに役立つ。
自分の居場所、を確認できると言えるかも知れない。素敵なことじゃない??

なぜこんなことを突然いまさら書く気になったかと言えば、それは日本がますます非寛容の国になりつつあるからだ。
ネット社会を中核に、加速的なまでに非寛容さを拡大しつつある。
もちろん、非寛容さは争いを招く。
米国でもアジアでも、イスラームでも非寛容さが社会を席捲しつつある状態は非常に危うい。
それは戦争の時代を予言するかのようだ。

ラテンアメリカにも争いはいくつもあるし、争いの惨さでは他の世界に負けてはいない。
けれど、それでも一人一人が肌を触れ合う中で、先に挙げた日本や米国、アジアのようなネット社会に於ける非寛容さの増殖現象は感じ取れない。
まだまだ一般社会で平穏に生活している人々は非寛容とは程遠いところにある。
ナショナリズム(愛国心)だって、平均的日本人の何倍も強い。
けれど彼らは自分が好きで、自分が大切で、自分の家族と友人たち、愛する人たちが何よりも大切なのだ。
それを伝えあい、態度に表し、そういう愛すべき(愛されるべき)自己を主張しようとする。
争い(勝利)の為の自己主張とはどうにも異なることに正直、わたしなんぞは面食らってしまうことさえある。わははははははははは


もちろん、いまさら日本がどうこうできる問題ではない。
ハグや挨拶のキスを取り入れるなんてことは絶対的なまでに不可能だ。
それは完全に異質な文化なのだ。

ラテンアメリカにもいくつも学ぶべきところがある。
ひとつは以前書いた価値観の問題だ。Link → 中南米で生活することの価値。
そしてもうひとつが人間関係の濃密さとそれが齎す優しさ=寛容の精神だ。

日本で生活している友人たちに出来ることはなんだろう??
...まずは子供たちを抱きしめて、キスしてあげればいい。
それならば誰に憚ることもない。
子供たちはびっくりするだろう、きっと照れて嫌がるだろう。
けれど、そのうち慣れる。わはははははははははははは
しつこくする必要はない。誰も見てないところで家族だけで、だ。
怒った後で呼んで抱きしめてやることだってできる。(これはきっと重要だ)
子供が小さければ小さいほど環境作りは簡単だろう。大きくなってからでは不可能に思えるかも知れない。
けれど人生の中では何度もそういうチャンスはやってくる。
多少なりそれは不幸な瞬間、哀しみの瞬間と共にあるしかないだろうけれど、皆無ではない。
そういうタイミングで肩を抱いてやるだけでもいいかも知れない。
寛容さを作り出すには長い道のりが必要だろう。けれど出来ることからやるしかない。
子供たちの為に、せめて家庭くらい優しくあってやって欲しいものだ。
子供たちに寛容さを感じさせることが大切だということに異論はないだろうから。
そう、子供たちに教えるのではなく、感じさせることがきっと大切なのだ。寛容さを説いてみても何も始まらないだろうから。


続きがある。けれど今日はここでやめて置くのがいいだろう。
たまには気分がよくなるようなblogの日もあっていいだろうから。
わははははははははははははははははははははははは


では明日。Hasta mañana.

nice!(0) 
共通テーマ:旅行

非寛容はどこから来るのか? [Argentina 2017]

そんな訳で昨日の続きなのだが。。。
昨日の続きだが、昨日分のblogを読んでなくても何の問題もない。わはははははははははははははははは
テーマがまったく異なるからだ。(それでも続き??笑)
しかも書き足しているうちに、どんどん何書いてるか分からんようになってきた。
書きながら考えるから、テーマは無限に広がるよ。わははははははははははははははははははははははは


さて、ここからは日本を顧みてみよう...

非寛容、だ。

非寛容はどこから来るのだろうか?
異なる意見を認めない社会。。。

社会は、もちろん、個人の総体としてある。
自分の権利と自由もほどほどに差し控える代わりに、他者の権利と自由についても自重することを求める文化。
忍耐や忍従を美学とする文化。
滅私奉公を美学とする全体主義的伝統文化。
自己主張を控え、和=輪(総体)を重視する教育。
権利や自由より義務を高々と掲げる教育。
してはならないことと、しなければならないことで息ができないくらい顎下まで浸かっている人々。。。
競争心はひた隠しにして横並びを演出する社会。
謙遜の美徳。。。
我々日本人はそういう文化社会の中で生きる。。。

そのすべてだ。。。それらのすべてが非寛容へと繋がっている。

だがこの国にも寛容さ=優しさはあったはずだ。それらは何処へ消えてしまったのか?

かつてこの国が寛容さを見せていたのは、危ういバランスの上だったのか!?
慎ましやかさを美徳とする社会で、全体主義=滅私奉公という正義が姿を現した瞬間にそのバランスは脆くも崩れ去るものだったのか!?
ああ、そうなのかも知れない。。。
そういう意味では戦前から戦後の社会も一挙に全体主義へと傾いたのは故なきことではないかも知れない。
古くは武家社会の頃から滅私奉公はそういう危険性を垣間見せてきた訳だ。
滅私であるが故に、個人の私利私欲ではないが故に、それはより激越なものと化すのか!?
私利私欲ではなく、滅私奉公であるとするならば、それ自体がまるで正当性を付与するかのように感じるのかも知れない。
それが自己主張を遠ざけてきた社会・文化の特異な捌け口とその形態なのか!?

そうだ、滅私は気持ちいいのだ。
私利私欲を捨ててお国の為にと考え、それを潔しとしない連中を罵り、断罪するのはとても安全で心地よい行為に感じられることだろう。
それは日本固有の伝統的文化(価値観)と相反しない思考形式なのだ、きっと。。。

※"滅私奉公"の意味 ... 私利私欲を捨てて、主人や公のために忠誠を尽くすこと。▽「滅私」は私利私欲を捨てること。「奉公」は国や社会などの公、または、主人や主君・上位の者などに自分の身をささげて尽くすこと。

最大の問題は、そのお国の歩みの正否が、適・不適が顧みられないことにある。
そこでは批判が封じられるからだ。批判が封じられる以上(自らそれを封じるのだ)、お国の適・不適が彼らによって判断されることはない。
愛国心とやらは、一切の政府批判を封じる。。。
愛国心がそれを命ずるのだ。
第一義は国の名誉と国威、発展なのだ。
それが叶いそうにみえるなら、もはや二の句は存在してはならないのだ。
完璧なサイクル・システムだ。
"そんなことしてたら犠牲を払わされるのは自分自身だよ"と諭してみても意味はない。なにしろ犠牲を払うことを美徳としている訳だから。
どんな言葉にも耳を傾けることはないだろう。。。敗北以外。。。

ああ、なんてこった!

滅私奉公は気持ちいい。。。自分が尊いことをしている気持ちになる。
エゴを捨てて、私利私欲を捨てて、全体の為に一丸となって邁進するイメージだ。
独りじゃないって感じられるのだろう。
みんなと一緒に、一丸となって、国を守る為に、自らを犠牲にするのだ。。。それは英雄的行為=英雄的犠牲に見える。
正しいに決まっている。。。なんてったってエゴを捨てているのだから。。。
エゴを捨てているのに、間違ってるなんてことがあるだろうか!。。。落とし穴だ。。。

"我々主義という拡大されたエゴイズム"(プリーモ・レーヴィ)の落とし穴だ。



さて、非寛容が日本の精神だなんて言うつもりはまったくない。
いくら日本嫌いのわたしでもそんなことは言わないから安心してくれ。わはは
それは影の部分なのだ。。。或いは裏表だと言ってもいい。
個人として主張は控える代わりに、集団としてのアイデンティティ(ルール)は嵩にきせてモノを言うという裏表だ。それは個人より集団を上に掲げる文化の中に存在する訳だ。

日本の伝統的文化・社会の中にある全体主義的価値観の影に、ナショナリズムと共に非寛容はひっそりと棲息していたのだ。
ナショナリズムさえ表に出て来なければ、それはずっと隠されてあったはずだ。

だから戦後日本の非ナショナリズム教育はそういう安全弁の役割を果たしてきたのかも知れない。
もちろん、それがベストだった訳ではないだろう。
他に方法はあったはずだ。けれど戦後の日本の教育はただひたすらノンポリ化を推し進めてきた。
特に68年世代の反省を以て、それ以降の教育現場において、非政治化=非思想化教育は完成されたと言っていい。
それは間違った方法だったろう。
伝統日本文化の"脱全体主義化"を図るべきだったのかも知れない。

自虐史観だという連中がいる。。。
戦後の教育は自虐史観に基づくもので国民を劣等感と罪悪感の中においてきたというのだが。。。
戦後の西ドイツと違って、百歩譲って、日本は自国内で自虐史観を教えてきたとしても、それは国内部だけで、対外的に正式に謝罪し補償して来なかった。
一度でも正式に対外的に、全世界へ向けて日本の犯した過ちを謝罪し補償していたならば、それで片付いたはずのものを、2ヶ国間交渉にこだわり、ひっそりと謝罪し、非公式に他の名目で補償交渉を行ってきた。それが故にいつまで経っても蒸し返されるハメに陥っているにも関わらず、昨年末、再び同じことを繰り返した。
国際社会を目撃者にして味方につけるべきところを、過去と同じ轍を踏んだのだ。



もう一度、冒頭に戻ろう。

自分の権利と自由もほどほどに差し控える代わりに、他者の権利と自由についても自重することを求める文化。
忍耐や忍従を美学とする文化。
滅私奉公を美学とする全体主義的伝統文化。
自己主張を控え、和=輪(総体)を重視する教育。
権利や自由より義務を高々と掲げる教育。
してはならないことと、しなければならないことで息ができないくらい顎下まで浸かっている人々。。。
競争心はひた隠しにして横並びを演出する社会。
謙遜の美徳。。。
我々日本人はそういう文化社会の中で生きてきた。。。

本音と建て前ってやつが横行する社会だ。
異なる意見を強く主張しない社会だ。
全体に(多数派に)異を唱える奴を面倒臭く感じる社会だ。
権威にしつこく盾突く輩が面倒臭く、疎ましがられる社会。
礼儀という言葉の裏で、儀礼的振る舞いを暗によしとする社会だ。
また個人を大切にしない社会だとも言える。
個よりも家、家よりも会社。。。家庭より仕事、プライベートより仕事ってやつだ。

日本の伝統的文化・社会の中にある全体主義的価値観の影に、ナショナリズムと共に非寛容がひっそりと棲息することを許してきたのだ。
それは戦後日本の非ナショナリズム教育(ノンポリ化)によって安全弁を与えられていたに過ぎなかった。
そしてまさにノンポリ教育が完成するかに見えた90年代、それらはまるで反動であるかのように、だが予想に反してナショナリズムの側から異議が申し立てられ始めた。。。

その安全弁を外したのが、新しい歴史教科書を作る会であり、時を同じくして総理大臣に就任した小泉純一郎だったのだ。
戦後、日本の"脱全体主義化"は果たされず、単に"ノンポリ化"によって蓋をされていただけのナショナリズムは"新しい歴史教科書を作る会"、小泉の靖国神社参拝を巡る中国との対立、そして2002年のワールドカップ開催に向けた"スポーツナショナリズム"の高まりを媒体として、2001年にシャンパンのコルクのように高々と栓を抜かれてしまった。。。
そして2001年9月11日、米国同時テロによって全世界が反イスラームに傾き、米国のアフガニスタン空爆が開始されるや、米国国内のナショナリズムの高まりは、9.11に憤慨し、哀しみを共有する全世界の人々に対し、世紀の悪役ビン=ラディンの存在と共に、或る種のナショナリズム的ヒーロー像を提供した。小泉はブッシュの足元にキスして米国のアフガン侵攻を明確に支持し、10月にはテロ対策特別措置法を成立させ、さらに2003年イラク戦争が始まると、国内のナショナリズムの高まりに乗じて、イラク復興特別措置法を成立させる。そして退任直後には、"小泉劇場"の後をそのまま継いだ安倍晋三によって、12月に防衛庁が防衛省へ昇格、海外派遣を本来任務と規定する改正防衛省設置法"自衛隊法"が成立した。
 
日本のナショナリズムは2001年に長い戦後の眠りから覚め、再び日本社会に姿を現したのだ。
最初は少数派にみえたナショナリストたちは、折りからのインターネット上での"2ちゃんねる"と呼ばれる匿名の主に誹謗中傷ネタを得意とする掲示板サイトや続いて続々と登場することになる各種SNSによって、おたく限定から、一般ネットユーザーの社会現象に対するコメント参加を"匿名を基盤に"拡大・増殖することになった。
匿名参加という形は、とても気楽で無責任なネットコメント文化を確実に増長した。
匿名なら何でも発言できる。より注目を集めたければより過激な発言、より極端な発言をすればいいのだ。
叩かれれば、匿名を変えて素知らぬふりをすればいい(当初はそんなことも可能だったらしいが、いずれ脅迫事件などの頻発により発信者特定が可能になった)。
誰も話を聞いてくれる友人がいなくても、ネット上ならいくらでも発言できるし、耳目を集めることもできる。
よく知らない話だって、ネットなら口論と違って、いろいろ調べながら知ったかぶりで話を進めることができる。。。学歴・経歴や年齢、性別なんだって偽装できる。。。。。"叩き"や"荒らし"と言われる行為が日頃のうっぷん晴らしに持ってこいとなったのだろう。

そうやって、今日の非寛容文化もそろそろと表舞台に出てきた。

やがて政治に大して縁のなかったはずの若者たちが、偶然か?敵を見つけ出すことに成功した。。。
2009年、おたく地盤に微妙な人気のあった漫画好き首相、麻生太郎が議会を解散させると、誕生したのは民主党政権だった。。。

まあ、内部分裂もいいところ、烏合の衆の寄り合い所帯とでもいうべき民主党にあって、よりによって総裁となったのが、鳩山由紀夫だった。
宇宙人とも呼ばれた鳩山を叩くのは、実に簡単で面白かったろう。(麻生太郎だって叩き放題だったはずなのに、どうにも彼はおたく支持が強かったらしい)
もうネタだらけだったに違いない。
世間もまた民主党の自堕落さにすっかり辟易としていた。。。鳩山の辞任に続いて、2010年6月、菅直人が立った。
菅直人で民主党は少しは持ち直すかと期待した向きもあったようだが(内部分裂で意見などまとめようがないのに)、2011年3月東日本大震災が起こる。。。
この前代未聞の大惨事に対して、有効な手立てを次々と執れた政権はなかったろう。誰がやっても非難は免れなかったろうし、それに対応できる政治家など誰一人存在しないだろう。できれば誰だって避けたい運命の一瞬だ。
震災対応を巡って非難されるのは致し方ないだろうが、ネット住民はそんなこと知ったことではない。
鳩山以来の民主叩きはここに完成した。(もちろん、民主党なんぞそもそも期待する方が間違っているのだが)
もう野田なんぞ火消しと幕引きに登場したに過ぎなかった。

そして2012年12月、安倍晋三が再登場したのだ。。。
民主党叩きは、ナショナリズムと相俟って自民党支持層となった!! 
これがわたしには意外というか、俄かには信じられないことだった。
ネット住民たちが自民党を支持!?
ナショナリズムの隆盛は承知していたが、まさか堂々と政府与党の支持に回るなんてことは、実はわたしには想像できなかったのだ。

前回、なよなよと"美しい国ニッポン"などと標語を掲げて登場し、さっさと姿を消した坊ちゃん政治家は、今度は、なんとブッシュを真似る強硬派を気取ってみせた。なんとはなっからナショナリスト系ネット住民を意識して登場してきた!!
彼が国民から叩かれれば叩かれるだけ、今度はネット住民たちの中のナショナリストたちはより強固な安倍晋三親衛隊となった。。。
Unbelievable!!



でんでん!! 



----------------------------------


そんな訳で、ナショナリストたちはわたしが何を書こうが、どう叫ぼうが、絶対に耳を傾けることはない。
おまけにもはや彼らは圧倒的多数派となった。
心地よい安心感と共にあるだろう。
彼らはこの闘いに勝利したのだ。
わたしが頭を下げようと、泣こうと、わめこうと、彼らの耳には届かない。。。(そんなことしないけれど)
彼らが考えを変えることなどない。
敗北の日まで。。。


昔から書いてきたように、とっくに手遅れだったのだ。
そんなことは知っていたが、まさか彼らがここまで多数派を占めるとは予想できなかった。
政治家たちが勝手にやってしまうんだろうと思っていたが、国民の大半がそれを支持するとは思っていなかった。
とんだ見込み違いだった。
こんな見込み違いはホントにblogを書き始めて以来、初めてにして、最大かも知れない。

わはははは ...  (ホントは笑いたくない)



--------------------------------------------


つい先日、米国大統領の就任式でトランプはこう言った...
"We will seek friendship and goodwill with the nations of the world - but we do so with the understanding that it is the right of all nations to put their own interests first.
私たちは世界の国々との間に友情、そして友好を求めます。しかしその前提には、すべての国は自国の利益を優先する権利があるという認識があります。"
(※英文・翻訳はニュース記事より転載)

そうだ、確かに"すべての国は自国の利益を優先する権利がある"かも知れないけれど、その権利を100%優先するなら、他国との間に控えめに言って摩擦、つまりは衝突を抱え込むことになるのは当然の理だ。だから他国にも同等の権利があることを認め、お互いが妥協点を見出す必要がある。それが外交というやつだ。それを完全に無視して20世紀初頭へ立ち返ろうとしているかのようだ。そうやって戦争は始まったのだ。。。

他者に敬意を払わない者は、他者から敬意も払われない。
それを他者に敬意も払わずに堂々と発言できるのは、自分がボスだと思っているからだ。世界のボスだという思い上がりだ。
だがボスにはひとつの義務がある。ボスは部下を養わねばならない。給料を支払ってやらねばならない。でなければそもそもボスですらない。
でなければ世界の王様、KINGだと勘違いしているのだ。だが世界は米国が王であるとは絶対に認めない。





nice!(0) 
共通テーマ:旅行

Otro Mundo ... ふたつの世界とふたつの人生 [Argentina 2017]

今回はラテンアメリカ的観点からみた日本の人生の1シーンについて考えてみたい。



さて、自分と家族や友人たちが何よりも楽しく幸せであることを第一義として掲げる社会、それがラテンアメリカだ。
そこでは、自分たちが幸せである為に働く...なんて概念もちょっとニュアンスが変わってくる。
自分たちが幸せであることが本当に第一義なので、その為に犠牲を払うって感覚はない。
家庭の幸せが一番で、ただ家計的にそれを支える為だけに仕事は存在する、そんな感じだ。

翻って日本人は自分たちが幸せになる為に働く、となる。
"幸せになる"だ。"幸せである"とはちょっと違う。このニュアンスの差は大きい。
そして"なる"為に、必死で努力する。。。今度は"必死で"だ。
しかも"幸せになる"には明確な終点がない。どこまででも、より幸せを目指せるだろうから、どこまでも追い続けるだろうからだ。
自分たちが幸せになる為に必死で働き、働き続ける為には企業の業績拡大と安定を最重要と考え、支え続ける。
いつの間にか、企業の為に働き、働く為に家庭にシワ寄せがゆく。。。知らぬ間に逆転してしまっているが社会そのものが同じ勘違いをしてしまっているのでそれに気づかないし、それをやめられない。
"でも仕方ないじゃないか、企業が儲かって、収入が増加し、安定し、家庭が裕福になり、いい教育が受けられ、美味しいものが食べられ、きれいなモノが着れて、楽しい旅行ができるようになるんじゃないかっ"と考える。
本来の目的が最終的に犠牲になってしまうのに、消費に幸せを見出して満足するようになる。それしか方法がない。
まるで厳しい肉体労働に明け暮れて疲れ切り、そうやって稼いだお金を、休日の全身マッサージでほぐすことに費やしているのに、それを幸せだと感じるようなものだ。
もはや消費でしか幸せを感じない。。。
消費に基づかない幸せを感じる瞬間など人生でほんの数えるくらいの瞬間しかないし、せっかくのその瞬間も可能なら消費で飾りたがる。
もはや消費と幸せは二律背反、背中合わせでふたつに引き裂くことはできないかのようだ。

ラテンアメリカでは、彼らはとかく楽しく働くことを目的にする。
楽しくないなら他を探す。もちろん、収入はいいに越したことはないが、残念なことにどこで何の仕事をしても収入は同じか、ほぼ変わらない。
だから彼らにとっては仕事は楽しいか楽しくないか、あとはチップ収入があるなら、それ次第だ。
ともかくも楽しくない仕事なら、せめて職場環境は楽しくしようとする。
まあ、お喋りがほぼ唯一の手段だが。わはは

一方、日本では収入1番、2番は遣り甲斐ってやつだ。
遣り甲斐ってのは、もうすでに必死になって働くことが前提になっている。わはは
3番手に現在の収入だけではなく、将来の収入(昇給、昇進)が加わるかも知れない。
4番手にまたもや企業の安定性・長期性だろうな。収入が思うようでなくても、これと言って遣り甲斐というものがなくても、企業が安定した業績で、長期的に(望めば)定年まで働けそうかどうか、だ。
5番目くらいにやっと残業や休日の取得状況などが入ってくるかも知れない。
6番目は福利厚生??まあ、社会保険などの充実まで含めると4番目くらいに位置してもおかしくはないか?
いずれにせよ、2番めの犠牲以外は、ほとんどが金銭に換算可能な項目だと言っていいだろう。
仕事や職場の楽しさは、それを求めることさえ不謹慎だという人もいるし、一生懸命やって成果が出ればどんな仕事だって楽しくなるという人たちだっている。もうラテンアメリカとは正反対だと言っていいだろう。

もちろん、ラテンアメリカの最大の環境要因は、昇給や昇進という制度がほとんどの職場においてない、ということ。
そしてどの職場でも給与に差はほとんどないということも、だ。
そもそも企業に就職する人が限定されている。
企業らしき企業に就職できる人は、大卒に限られている。しかもハッキリ言えば、入社はコネ次第だ。
コネがなければ入社できないと言っても過言ではないだろう。
大学の進学率は南米の大都市を除いてはお話にもならない。
そもそも大都市にしか大学がないというケースも少なくないし、子供を大学に入れる為にアパートを借りてやっれるだけの余裕のある家庭はとても少ない。大学進学はほぼほぼ富裕層から中間層上部に限られてくる。一般の人々は大学に進学しない=できないし、卒業したところで、そういうコネのない人々は企業には就職できないから、それだけのメリットはない。(※公立の大学自体は無料というところが多い)
だからそれよりは1年から2年くらいの専門課程だけを修了して、なんとか企業の片隅や中規模商店の事務職、ネット関係の技術者や車などメカニックの技術者、或いはコックなどを目指す。あとは歯科医だ。歯科医がとてつもなく多いのはそれが専門課程化されているからだと思う。
そして最低賃金よりちょっとだけマシな(1.5倍くらいの)給与を得る。けれどそこから先はもう昇給も昇進もないと考えた方がいい。
そんな中で楽しさを求めるのは仕方がないし、それしかない。

その点、日本人にはまだ"幻想"がある。要はそれがいいことなのか悪いことなのか、だ。
敢えて"幻想"と書いたのは、もちろん、人によりけりだからだ。公平に機会がある訳ではない。
或る人はチャンスをどんどんモノにしてゆくが、そんな風に事を運べない人もたくさんいる。彼らには"幻想"は或る意味ではとても残酷な結果を齎す。
本人的には同じように必死になって一生懸命働き、家庭や個人を犠牲にして生活しているにも関わらず、昇給も昇進もなく、それどころか、しばしば失職し、収入は不安定となり、さまざまな出来事が悪循環となって襲い掛かる。。。ひょっとしたら彼には最初から程よい環境で、自らと家族の幸せだけを守り続けてゆく人生が相応しかったのではないか、というケースだ。こういうケースは実はそれほど少なくないと思われる。一緒になって競争しなくたって良かったのに、得意分野でもないのに、競争し、敗北を重ね、自信を喪失するばかりか、他者からの評価を下げ、卑屈になり、失職し。。。という悪循環に陥ったりするケースだ。

そう何も彼の能力の低さをあげつらっている訳ではない。人にはそれぞれ得意分野というものがある。
それぞれの得意分野なら他者の多く(平均的他者)よりはいいスコアを出せるのに、社会環境は得意分野に彼を導かないこともたくさんある。

或いは、得意とする分野によっては次のようなことも起こる、
 彼は絵が得意だ。平均的他者よりも明らかに巧い。けれど天才的な巧さかある訳ではないし、いずれかの絵の分野でプロとして活躍する人々と比べるとそれほどでもなかったりする。。。これはちょっと困った事態を引き起こす可能性がある。。。プロとして画力一本で勝負するような土壌に立つのはかなりの賭けになってしまうからだ。経済的余裕があったり、もう他に何もできないといったタイプなら、或いはとてつもない情熱がそこにあるタイプなら後先考えずにその道に進むことが出来るかも知れない。けれど、経済的余裕に恵まれなかったり、周囲の理解がなかったり、そこまでの情熱がなかったり、或いはいろいろバイトな生活経験や就職試験もなんとかパスできる程度の器用さを持ち合わせていたりしたら、やっぱり普通に一般企業に就職してしまう方が無難に思えるだろう。
だがその結果、得意でもない営業部門なんかで他者と競争するハメに陥ってしまうってケースだ。得意分野にそれほどのマーケット・チャンスがないというやつだ。そんなことはたくさんあるだろう。平均的他者と比べてかなり足は速い、運動神経はいい、力は強い、けれどプロになるほどの成績ではない。楽器演奏や歌唱でもそうだ。どんなに絵がうまくても、漫画やデザインならマーケットがあるけれど、芸術ならマーケットは極めて小さい。音楽でも同じだ。クラシックのマーケットなどないにも等しい。なんなら学業成績でもいい。平均的学力のかなり上をゆくのだけれど、研究職や学者になるほどではない。外国語が得意なのだけれど、それ以外は人づきあいや要領も含めて今一つ。。。そんな分かりやすく言うと、実務的でない能力が平均的他者よりかなり上であっても、社会は彼らになかなか微笑まない。。。
いや、もちろん、チャンスはゼロではない。けれど現実問題よほどの運がいる。。。

 そんな得意分野があるより、いっそ笑顔がいいとか、お喋りがうまいとか、度胸が据わっていて物怖じしないとか、他者から好感を持たれやすい容姿とか、勉強ができる訳ではないけれど、ちょっと頭の回転が速いとか、そんな得意分野とも呼べないような特技(キャラクターだ)のある方が実は企業勤めには向いていたりする。。。そういう能力をふたつ、三つ持ち合わせていたりしたら、もうそれっぽっちで出世したりする。。。かなり不公平だ。
だから日本にはラテンアメリカと違って、収入を伸ばしたり、出世したりするチャンスはいくらでもあるように見えるけれど、実際、そういうものに無縁な人たちもたくさん存在するということだ。彼らにとっては、そういうチャンスや社会そのものは、実のところ"幻想"でしかない。なにをやってもうまく行かないように思えるだろう。不公平だ。平均的他者より余程、明確な得意分野や特技があるのに、社会のレースに参加してもなかなか評価されない。
 
 実際、サラリーマンとして求められる能力なんて、たかが痴れている。

笑顔がとびきりいい。
お喋りがうまくて、面白い。
度胸が据わっていて物怖じしない。
他者から好感を持たれやすい容姿。
学力に関わらず、頭の回転が速い。
手先が器用で、仕事が早くて大きなミスがない。
なんでもトライしてみて、あとはフツー程度に努力を続けられる。
たまたま上司に好かれる業務外の要素がある。
とにかく人をまとめるのが巧い。
ともかくいろんなアイデアを発想する。
目に見える努力をする。

...そんな程度だ。わははははははははははははははははは

バカげてる。実際、仕事ができるできないに、学歴なんぞ関係ない。学歴はスタート地点でアドバンテージをもらうのに役に立つくらいだ。しかも余程の学歴でないとただの大卒では学歴と呼ぶほどには通用しない。学業成績もさほど意味はない。数学が多少苦手でも普通の営業職なら電卓さえ使えればバカでない限り問題ない。英語が出来なくても普通の企業なら問題ない。歴史が苦手でもそんなもの普通は何の問題もない。化学や物理なんてその道に進む人たち以外は一般職の企業勤めには必要なかったりする。どうせ60%以上のサラリーマンは営業職だ。仕事の中身なんぞたかが痴れている。
もちろん、ありていに言って、バカと怠け者は困る。。。平均を遥かに下回る奴は困ったもんだ。。。
自分が入社した会社で平均を下回っていると感じたら、さっさと辞めて、他のもう少しレベルの低い企業に転職することだ。もちろん、大抵の場合、収入も下がるかも知れないが、そこで平均以上のポジションを確保できるなら、それが勝利の法則というやつだ。わははははははは
企業や集団のレベルが低ければ低いほど、彼は勝者のポジションを確立できるという単純な話だ。
けれど大半の人たちはそういう道を選ばない。。。負け犬でもいいから少しでも大きな企業(自分にとってレベルの高そうな企業)に居残ろうとする。。。そしていずれ辞めざるを得なくなる。。。



そんな訳で、ラテンアメリカと日本では社会環境も異なるし、人々の性格や生き方もまったく異なる。
日本の方がずっと恵まれた社会だという人は多いだろうが、実際、後半でみてきたように、社会が恵まれているというのは多くの人々にとって"幻想"だ。
多くの人々にとっては、そんな"幻想"が却って彼らの人生を歪めて、悪循環に陥らせている。いっそのこと、そんな"幻想"などない方がいいくらいに、だ。
すべての人々に平等にチャンスがやってくる訳ではない。能力の如何でもない。ただの運でもない。
そもそも日本という社会が求める人物像には幅がないということだ。教育現場が幅のある人物を提供しない所為もあるだろう。
もっと言えば、日本のサラリーマン社会は本当に能力など求めていない。大半は営業オンリーだ。学歴も特別な能力も必要としていない。
日本の社会は能力のある人々の活かし方を知らないということだ。IT業界など多くの、或る特定の能力を必要とする分野では、どの業種も個人事業に支えられているに過ぎない。(※組織は法人であっても多くは個人事業の範囲を出るものではない)

 思うに、別に無理に学歴社会の体裁を整えなくたって構わないじゃないか、碌でもない三流大学など、どんな意味もない。
もっと実力ある人々をきちんと社会に送り出すべきだ。
子供たちに学業成績以外の人生を生き抜く上で大切なことなど一切教えやしない。個に合わせた指導など何処にもない。
学校教育は画一的で、表面的(記憶偏重)知識だけで、それ以外は何も教えない。
そもそも思想・哲学すなわち考える力を養う教育が完全に抜け落ちている所為で、子供たちに自分自身で考える力がない。
子供たちには自分自身でどうやって生き方を見つけるかという視点と思考が欠けているのだ。
そもそも子供たちには社会に出る前にそういうことを考える時間がない。なのに進路を決めなければならないのだ。いったいどうやって!?
もっと子供たちに生きる力を与えてやるべきだ。生きる力とは技術ではなく、自分自身で考える力だ。

たとえば学業成績の如何に関わらず、広範囲の多様性のある分野で、能力のある人を育成し、社会が受け入れ態勢を整えるという必要性だ。
芸術関係への公的支援、私的支援(税の控除とかいろいろ方法はある)の拡大もそうだし、手先が器用で工芸など様々なモノ造りに向いている人たちが何処へ進めばいいのかを手引きしてくれるような環境はほとんどない。土地を持たないけれど、自然を愛する子供たちが農業や牧畜などに携わる道はほとんどない。プロフィールドの整備されていない分野のアマチュア・スポーツ選手が生計を建ててゆくことの困難さもそうだ。ベストセラー小説以外、詩人も、歴史や政治・経済などの専門家たちも副業をしない限り、飯なんて食えやしない。調理師学校だって本人の確固たる自覚がなければ学校として手引きするような環境はほとんどないし、学業はイマイチで愛想も悪いけれど、美味しい食べ物に凄く興味があって、しかも手先も器用って子を、三流大学やサラリーマン社会に送り込んでみても仕方ない。子=個の多様な可能性を探り、もっと社会そのものの裾野を広げてゆくべきなのだ。そしてそういう分野に対するいろんな形の支援策があっていいと思うのだ。

たとえば、言うまでもなく日本ほど伝統文化や伝統的手工芸が多種多様な幅をもっている国は滅多にないだろう。(※それこそ本来は愛国者を名乗る人たちが支えるべき分野・行動じゃないのか!?皮肉。)けれど、その多種多様な伝統文化・伝統工芸は、ほんの一握りの人々によって、もう数名単位のほんの一握りの人々によって細々と継がれ続けているに過ぎない。そこへ送り込める人材はいくらでもいるはずだ。先にも書いたように、学業はイマイチでも、笑顔も愛想も、うまく喋ることもできないけれど、アイデアマンでもなく度胸もないけれど、そういうことに取り組める人材はいくらでもいるはずだ。大半の子供たちをサラリーマン社会に送り出すことを目標とし、一部のプロスポーツマン以外は、全体からみればほんの一部に過ぎない医療関係者、司法関係者、あとは教育関係者ばかりを目指させる教育現場の異常さだ。(スポーツ選手に一切勉強させないという無責任な教育体制も反省されるべきだが。)
現にないものを作り出せと言っている訳ではない。現にあり必要とする場があるのにそれを繋がないという教育現場の多様性の欠如、個への無視・軽視だ。個を顧みない教育などビデオ教育となんら変わりがないではないか。もちろん、伝統文化を守る人々への子弟育成の為の助成金も同時進行的に取り組まれねばならない。

いや、なにもラテンアメリカの教育が素晴らしいなんて言うつもりはない。ラテンアメリカの初等教育では放任主義がまかり通っている。勉強したい子は勉強するし、したくない子はしない。個性も矯正したりしない。野放図だ。義務教育の範囲では緩い社会経験、集団経験をさせるだけだ。勉強はしたい子、できる子だけ率先してやるだけだ。だから全体としての平均レベルなど上がりようがない。
けれど例えば、大学レベルの若者たちを見てみると、やはりみんな勉強したくて大学へ来ているし、勉強している。正規のコース以外にも勉強したいからと、授業を選択する学生たちも多い。もう日本とはまったく違う。勉強したくない奴は大学になんぞ入学していないのだ。
かつてレストランKabukiでバイトしていた女の子Valentinaは、4年制大学の法学部で学びながら、趣味で4年制の調理師学校へ毎日ダブルで通っている。彼女は母親が弁護士でそっち方面の仕事に就く予定で、まったく調理を仕事にする気はない。けれど興味があって、ホントにただの趣味で大学の傍ら、4年制の調理師学校へ毎日通っているのだ。他にも心理学の専門でありながらそれと無関係な日本語クラスを選択したCarlosのような例とか、いくらでもそういう趣味的範囲で必要のない受講クラスを取っている学生たちはたくさんいる。
よく日本では中高生の学力の世界各国レベルなんてのが話題になるけれど、もし大学生の部門があるなら、間違いなくダントツで日本は最下位だろう。
世界には勉強もしたくないのに、大学へゆく学生などほとんどいないのだ。みんな勉強したくて、ちゃんと勉強の必要性を感じて、大学へ進学するからだ。

未だによく分からないのは、日本人の若者たちは本当に勉強するのが嫌いで、大学へゆくのも嫌いで、バイトばかりしている。
けれどバイト先では、本当によく働き、必要なことはどんどん吸収して、生き生きとして働く。情熱をもってバイトに励むと言ってもいいくらいだろう。
不思議だ。。。(※もっともわたしの知っている世代までであり、ここ10年の若者たちのことはまったく分からないのだけれど。)
その情熱が学業に生かされることはほとんどない。極めて少数だ。
大半の若者たちは、人生の目的も将来の人生設計も考えず、なんとかかんとか二流、三流大学へ入学する。
だが入学したら最低限の受講に留めて、ひたすらバイトに励む。
そして青春を謳歌する?? (※まあ、人それぞれだ。)

 ひとつは恐らく義務だ。。。何度も書いているが、日本社会は"してはならないことと、しなければならないことの海に首まで浸かっている"。人々はもう義務にはうんざり辟易としているのだ。義務として掲げられた瞬間、人々は疲れを覚え、やる気をなくし、イライラを募らせるのだ。しかも次にあるのは入試と異なり、卒業というかなり低いハードルだけだ。高校入試から大学受験までの過程で疲れ果てた学生たちはもう学習する意欲など覚えたりしないのだろう。
 もうひとつは、やはり目的がないからだろう。目的のない学習だ。別にこれからの自分の人生となんの関係もない学習。。。ラテンアメリカの学生たちとの間にある大きな差だ。明確な人生設計が何もない中で、たまたま入学のできた大学のたまたま倍率が低そうだったから選んだ学部で、いったい何を学ぶことがあるだろう。そういうふたつの要素が恐らくは日本の学生たちを大学から遠ざけるのだ。

本当に、したいこと(人生設計)があって、大学の専門課程をきちんと選んだ学生なんてごく限られているからだ。
ともかく進学する。。。それだけで彼らは大学へ進学した訳だ。
通学や学費の許す限りの範囲で、とにかく何処でもいいから、どこか入学できる大学に、学部なんてみう消去法で、彼らは進学するしかなかったのだ。
何故なら学校教育がそう求めたからだ。彼らの所為ばかりではない。(※彼らに責任がないとも言わないが)
彼らには自分自身を見つめ、自分の人生を考える為の時間も、その為の方法や必要な知識も与えられなかったからだ。
そういうことの重大性を問われなかったからだ。
寧ろ、"そんなこと考えている暇があったら、英単語のひとつでも覚えろ"などと言われ続けてきたからだ。
だから彼らの大半は大学3回生を迎えて、卒業単位と睨めっこしながら、慌てて就職先について考え始めるのだ。
人生設計ではない。ただの就職先について初めて考え始めるのだ。
だがそこでも、就職先は大体の分野で、しかも複数の余地と幅をもって取り敢えず選択される。
企業ではなく、第一希望業種~第三希望業種なんて言ったら、もう実はなんにも決めてないのと同じだ。わははははははははは
もちろん、中には企業ベースで第一希望~第三希望まで絞り込む学生もいるだろう。けれどそれは圧倒的少数派を出ないということだ。
その結果、やはり大半の学生たちは、"入れるところに"入社する。
そこには人生に於けるとても重大な決心をしたという自覚すらないだろう。

まったくおかしな話じゃないか、人生について考える前に、人生の選択をしろと要求される訳だ。
人生についてなんぞ考えるな、今はとにかく教わることを記憶しろ。とにかくオマエたちの頭の中に詰め込めるだけ詰め込んで、どこでもいいから入学できそうな大学と学部を探して入学しろ、と。だとしたら、16才からの7年間のいったいなんと無駄に過ごされることか。。。
下手すると無駄な上に間違った選択をさせられる訳だ。
自分自身にまったく相応しくない、得意でもない、望みもしないレールに乗せられてしまう訳だ。


振り出しに戻って、ラテンアメリカの連中の人生のなんて単純なことか!
シンプルだ。
ややこしい物語はどこにもない。
勉強したい奴は勉強し、そうでない奴は勉強せずに好きなことをして育つ。
問題は貧しさと家庭環境因子がそこに大きく働いているということだ。
だがともかくも彼らはそれなりに自分らしく生きる。
他に方法を知らないので、自分らしくというか、自分にできることで生きてゆくしかない。
したいことがあればそれをする。あとは貧しさとの闘いだ。
時に貧しさは彼を押し潰す。
間違ってもラテンアメリカは楽園なんかじゃない。
けれどともかくもシンプルなのだ。ラテンアメリカの人生はとてもシンプルだ。
頭の中だってシンプルだ。接しているこっちもシンプルで済む。
それが魅力でもあるし、この社会が成熟してゆかない原因でもある。
勉強したい奴は大学に入っても真剣に勉強するし、大学をふたつ卒業する人間も珍しくない。
30才を過ぎてからふたつ目の学位を目指すYancyみたいな連中もたくさんいる。
もちろん、まったく公平な社会ではない。
そもそも各自のスタートとなる貧しさと家庭環境因子に雲泥の差があるからだ。
大半の連中は驚くほど愚かだ。なにも知りやしない。。。
けれど振り返って、日本だって愚かさでは負けてはいないじゃないかっ。

もっともラテンアメリカ人らしいラテンアメリカであるコロンビア人たちは、幸福の自覚度では自己評価世界第一位だったということについてblogを書いたことがある。

彼らの人生が我々日本人の基準からして幸福かどうかは知らないけれど、彼らがそれぞれの人生を幸福であると感じるとしたら、環境的には豊かな社会に暮らしながらも、自分が幸せではないと感じている日本人の方が哀れな存在じゃないかと思う訳だ。


nice!(1) 
共通テーマ:旅行

お久しぶりの近況報告。仕事してます♪ [Argentina 2017]

そんな訳で、Buenos Airesでやっと働き始めました。
ああ、しんど。。。いや、仕事は拍子抜けするくらいラクなんです。
暇過ぎてどうしていいか分からないくらい。わははははははははははは
それでもしんどいのは、ひとつは上に書いたように退屈な仕事でヒマを持て余しているから、もうひとつは半年近くも仕事してなかった所為。。。わははははははははははははははははははははは
そりゃあ、久しぶりの仕事はなんかしんどい。へへへっ

でも実際のところ、給料泥棒ではないかと思えるくらいラクな仕事。。。ラク過ぎ。。。
仕事ないやん。。。ええのんか??

その1."教える"ことが仕事なのだが、わたしがメインで教えるのはシェフ候補の女性ひとりだけ。。。寿司場はキッチンを終えてから取り掛かることになっている。
だが、もちろん、彼女は通常の厨房の仕事をこなして働いている訳で、講習をしている訳ではないから、それほどの時間はない。
しかもアレコレ一度に変えたくないというゼネラルマネジャーの方針で、教えるのは少しずつレシピを変えながら、お客さんの反応を見ながら??という中途半端な形。。。意外にも日系人の側からの抵抗! びっくり! わはは
90%がいちげんさんの観光客なのに、残りのたったの10%の顧客さんに遠慮して、レシピを急激に変えたくないというのだ。
なんか過去にトラウマでもあるのか、"ホンモノ志向にしてもお客さんが好きじゃなかったりするから..."と日本風レシピより変なオリジナルレシピに愛着がある様子。
そんな訳で、一日1つか、2つの試作をして終わり。けれど肝心のゼネラルマネジャーがいたり、いなかったりで、わたしが試作したものを大して試食できてない。なんのこっちゃ??
それにレシピを教えたいが、ここでもちゃんとしたグラム対応の秤がないので、購入してくれるまでどうしようもない。
目分量というやつは本物の味を知らない人たち相手に通用しない。ともかく、いろんなソースを作って味見させてみるが、ゼネラルマネージャーはいつも不在がち。或いはミーティングばかり??

その2.レストランが忙しいのは週末。
だが"教える"ことがメインのわたしは週末に休みを与えられている。わたしの勤務は平日5日間のうち4日間のみ。
お客さんはいつもいるけれど、それでも大した仕事量じゃない。そもそも料理が異常に簡単。。。調理という調理はない。
忙しくて対応できないというのを理由に(全然大したことないのに)、フライもののパン粉も事前につけて置いてあるのでベチャベチャ。。。野菜も事前にわざわざ真空パック調理。。。そんなもん歯ごたえなんてゼロ。それをレンジでチンして、さらにフライパンで味付けして。。。
問題はそういう間違った仕込み。。。意味もない仕込みに大半の時間を費やしているのだが、ギョーザも春巻きも、豚肉の八幡巻風も、とんでもないレシピなのだが変えたくない様子。。。その理由は不明。あれだけ本格的な日本庭園の中にあるレストランなのに。。。いいのか??わはは

その3.笑える話。。。
ここ私企業ではなく、日本アルゼンチン財団経営。。。ということで利益管理もゆるい。。。仕事もぬるい。。。
早番は朝10時に出勤。11時までちょっとばかり準備したら、12時のオープンまで交代で朝食タイム!!20分というが、いい加減なもんだ。ダラダラ休憩してる。。。
で、12時にレストランがオープンして、4時になると今度は遅番の連中が出勤してくる。
しかも午後4時から6時は喫茶タイムということで、食事提供はサンドイッチとデザートのみ。。。全員が出勤している時間帯なのに、だ。
そうなるともう仕事はないも同然。午後4時から一応交代で30分の昼食タイム。
けれど5時になっても、遅番の連中が6時以降の準備をする傍らで、サンドイッチの注文を待つのみ。。。そんなもん一人でできる。
という訳で4時以降、ほとんど仕事なし。
すなわち早番は10時から6時までの8時間勤務だが、2時間半くらい仕事せず休憩してる。わはははははははははは
遅番は4時から12時までだが、実際4時から6時くらいまでタラタラ準備して、6時から交代で食事タイム。。。
でお客さんはどうせ夜9時か、10時頃にしか来ないので、それまで同じように2時間以上もうダラダラ。。。
早番・遅番2交代で、営業時間が朝12時から夜12時までの12時間というのはもうどうしようもない。いやでもせめて朝9時に出勤させるしかないのが普通だが、それもしたくないらしい。。。わはは


とにかくぬるい。。。ゆるい。。。そんなぬるま湯にみんな慣れ過ぎていて、それを変えるのは難しいが、そもそも今回はわたしの仕事はそんなことではないようなので、気にしないことにする。わはははははははははははははははは
そんなこと誰も望んじゃいないし、財団としては評判さえ悪くなければ儲かろうが多少の赤字だろうが、庭園の入園料で賄えるなら、どんな問題もない。
予算が決められているんだろうな。その中でやりくりすることが肝心で、収益を上げるなんてことは多分、二の次なんだと思う。

まあ、そんなことんなでわたしは暇すぎ。。。こんなラクな仕事人生で初めて。

多分、わたしを恒久的に雇う気はない模様。半年から1年くらいで考えてるんじゃないかな?
もちろん、様子を見ながらということだと思うけれど。
それは以前にも書いたように、わたしにとっては好都合♪
そういう仕事スタイルがわたし向き♪ わははははははははははははは


ちなみにスタッフはホントにやりやすい。もちろん、頑固な奴もいるけれど、頑固な奴は寧ろ、下っ端なので、特に今は気にする必要もなさそう。
寿司場もみんな寿司経験がほとんどないことを気にしている連中なので、珍しいことに素直に意見に従ってくれる様子。
そういう意味ではゼネラルマネージャーとの調整が最大の難関だが、今回の仕事内容的には、教えるだけ教えて、彼らがそれを採用しようとすまいとわたしの知ったこっちゃないって感じっぽいから、様子見ながら対応します。

しかし原価意識もなく、売上げや利益管理もざるで、ともかく人件費とのにらみ合いだけが仕事みたい。。。
わたし的な問題は厨房のフライパンがボロボロ過ぎること。みんな凹んでるよ。。。タッパーウェアも全然足らないし、秤もなければ、計量カップもない。
それ買ってよ、お願い♪ わはは

来週は間違ったフライものを改善しよう。1週間でそれだけ?? わはははははははははははははははははははははは

nice!(0) 
共通テーマ:旅行

Buenos Aires 糞バス事情。 くそったれっ!! [Argentina 2017]

ブエノスアイレスの糞バス事情!! 

以前にも書いたように、ブエノスアイレス市内は地下鉄とバスによる交通網がある。
けれど地下鉄はCatedralなど中心部から放射線状に外側へ伸びているだけで、環状にはなっていない。2つの路線が垂直にいくつかの路線を繋げているが、それも中心部寄りで大して役に立っているとは言い難い。しかも夜10時頃には終電になってしまうのでホントに使い勝手が悪い。
ついでに文句を言えば、土日には極端に本数が減ってしまうだけでなく、地下鉄の入口を中央一か所以外、ほとんど閉鎖してしまうので、とっても面倒になったりする。
そんな訳で、巨大な都市ブエノスアイレスを移動するにはバスが必須となる。。。
だがこのバスが地下鉄以上に糞なのだ。。。Mierda!! Shitt!!

ちなみに地下鉄もバスも、Subeと呼ばれるプリペイドカードを購入しなければ、現金では一切利用できない。地下鉄、バスは共通だが、MedellinのColombiaにあるような乗り継ぎ割引のようなシステムはない。約50円と中南米では高めだが、地下鉄とバスを乗り継げば、片道で100円、往復で200円という庶民にはかなり痛い出費となる。

さて、糞バスだ。

たくさんの問題を抱えたバスだが、そもそも乗車時点で問題が発生する。
いわゆるワンマンカーなのだが、市バスの料金が均一でない為、なんと乗車時に各自が運転手に目的地を告げて、運転手が料金を手元のボタンで操作してから、プリペイドカードをかざすことになる。すごい手間だ。ひとつの停留所で10名が乗ってきたらどうなるか考えてみればいい。ひとりずつ行き先を確認して料金を操作するのだ。しかも地下鉄にしろ、バスにしろ、このプリペイドカードの読み込みはとてもひどい。かざすと書いたが、かざしたって糞ほども反応しない。読み取り機にペタっとくっつけて読み込ませるのだが、読んだり読まなかったり、とても精度が悪い。
おまけに料金不足だと夜間一回は乗せてくれるが(プリペイドカードに借入として記録される)、昼間だと降ろされる。。。気づかずにバスを待ってたら、そのバスには乗車拒否され、どこにあるかよく分からないSubeの料金チャージできる店を探すハメになる。怒り心頭だ。

さらに、バス停が複数に分かれ過ぎている。。。過ぎるというやつだ。
そもそもブエノスアイレスの道路はほとんどすべて一方通行だ。両側通行なんて本当に滅多にない。大きな幹線道路でも一方通行だ。
そんな訳で、同一方向でも行先によってバス停が複数に分かれるのは理解できる。
けれどそのバス停が200mにも渡ってあちこちに点在していたら? それは本当にバカげている。
例えば、Santiago(Chile)でもそうだ。けれど行き先の異なるバス停は隣接して一列に並んでいる。
だがブエノスアイレスでは違う。大きな幹線道路だとホントに200mくらいに渡って、あちこちに点在している。
自宅に戻るのに利用できる複数のバスが、離れたバラバラのバス停に止まるなんてことがざらにある。次に来たバスが離れた所にあるバス停に停車する場合はみんな一斉に走り出す。。。わはははははははははは
バカげてる。。。まったく隣接していないし、バスの経路そのものが論理的ではない。乗り継ぎを一切考慮しない料金体系なのでこういう訳の分からないバス経路が出来上がる訳だ。
例えば、Santiagoではバスの乗り換えが平常手段として経路が組まれているので、60分以内の地下鉄やバスの乗り換えはプリペイドカードをかざしてもカウントされない仕組みになっている(何度乗り継いでも同じ)。最初の乗車から乗り継ぎまでが60分以内という制限だが、それで十分に機能している。同じ会社なのだから、当然と言えば当然だ。(もっともSantiagoのバスは料金は1ドル近くする)
Santiagoのバスも屑だが、同じ方向へ向かうバスは始点と終点の違いだけで番号分けされていて、ひたすら往復するだけだ。それぞれの終点や中継点ではまた別の経路のバスがひたすら往復している。市内の幹線道路を同じ方向に向けて、それぞれの市外の行き先に合わせて何本ものバスが山ほど走るなんてバカげた光景だ。交通渋滞だって激しくなる。Santiagoの場合、こういう点はずっと論理的だ。

さて、さらに最大の問題はバスが気ままに経路を変えて走るってことだ。わはははははははははははは
そんなバカなっ!? どうやってそんなバスが機能する!?
Buenos Aires市内は古い建物が保存されている。。。例えば50年以内のアパートなら簡単に建て直しできるが、100年以上のアパート建物なら、外観を残したまま内装だけ建て替えなければならない。それは建物の老朽化に合わせて年中補修工事を必要とする。
だが建てものだけではない。道路もそれに合わせてというべきか年柄年中、補修工事をやっている。面倒なのは一方通行ばかりであるということも忘れてはならない。
道路工事は普通なら半分ずつ、交通量を制限しながら行われる。。。けれどここでは全面通行止めになったりする。
さて。。。道路工事や事故、渋滞などがあると、なんとバスの運転手は勝手にバスの経路を変える。。。
最初に書いたように、乗客の申告によって、バスの運転手は乗客がどこで下車するかを把握しているので、すぐ後ろに同じ番号のバスが続いてたりすると、平気で渋滞や工事などを避けて違う道を勝手に走る。。。実際には乗客の下車予定場所を数百メートルくらい勝手に変更しても平気だ。悪びれる気配もない。
ムカつくのは、バスの中にはアナウンス機能がない。運転手は乗ってきた乗客に、気まぐれに"どこそこは通行止めだから、あっちを回るよ"と伝えてたりするが、それを全乗客に告げる訳ではない。突然、わたしの下車すべき通りを別の筋を走って横切っているなんてしょっちゅうだ。この1週間で言えば、ほぼ毎日違うコースを走りやがった。こっちはどこで降りなきゃならないのか、窓の外をずっと緊張感を持って眺めてなきゃならない。朝なんぞバス停の前の道路を工事している所為で、バスは停車せずに通り過ぎてゆく。。。バカなっ!?
毎日のように異なる経路を走るバスなんて機能するはずがない。みんなそれでも慣れているのか文句ひとつ言わない。。。
まだアパートを変わって2週間のわたしは違う道を走られるともうさっぱり分からなくなって、何度も降り損ねて、無駄な道を歩かされる。。。しかも迷う。。。
ブエノスアイレスの町は、碁盤の目とは程遠い、斜めに走る道でつながれている。。。こんなに迷う町は初めてだ。わたしは決して方向音痴ではないので、どんな町も最初に歩き倒して、覚えてしまう。あとは方向だけを頼りにどこへでも歩いてゆく。。。
けれどここではもう3ヵ月になるというのに、いまだに道に迷う。。。もうこのわたしが正反対を向いて歩くなんてことはブエノスアイレス以外では考えられない。
ホントに迷宮のような町並みなのだ。

ついでにもうひとつ言っておくと、糞バスの運転手はなんとバス停の名前をよく知らない。。。うそんっ!?
でもホントだ。もちろん、大半のバス停の名前は彼らだって知っているけれど、乗客たちもみんな下車予定を縦もしくは横の通りの名前で告げるので、運転手は大きな通りにある小さな公園の名前のついたバス停を告げても、"それどこ??"って感じだったりする。
わたしのアパートの近く、Cordoba通りには小さな公園があって、その前のバス停の名前はPlaza Mons Miguel de Andreaというのだが、そんな名前を告げても大半の運転手は首をかしげる。Jaurez Jeanという公園の脇を通る道の名を告げると、"ああ分かった"という顔をする。おいおいっ、バス停の名前くらい憶えとけよ!!

さらにはバスの経路自体が比較的よく変わるらしい。インターネット上には、ブエノスアイレス市が運営する道路行程Mapがあって、バスの経路などを教えてくれるのだが、わたしのアパートと職場を結ぶ路線の経路はもうまったく変わっていて、最初は朝からとんでもないところへ連れていかれてしまった。。。
市の公式ページにはいまだに反映されていない。役に立たない。。。

ブエノスアイレスというのは、確かに南米最大の都市だが、決して南米最大のモダンな都市ではない。寧ろ、とても古臭い大都市だ。都市のモダンさならLimaの方が遥かに上だ。Buenos Airesに比べたら、Medellin(Colombia)やSantiagoの方がモダンさでは上かも知れないくらいだ。

nice!(0) 
共通テーマ:旅行

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。