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仏教についてスペイン語でどう説明する?? 附スペイン語単語。 [Argentina 2017]

 日本を出て、海外に10年近くもいて、何度も信仰について訊かれたことがある。
いや、別にそんなに真剣な質問を受ける訳ではない。
ただ日本人は仏教徒なんだろう?仏教ってなんなの?神様はいるの?という素朴な疑問から来ている。

もちろん、ご存じの通り、わたしは一切の無信仰、無神論者Ateo(Ateismo)であり、仏教徒でもないし、宇宙創造神も信じちゃいない。

まあ、ありていに言って、ほとんどの日本人もまた仏教のことなんぞ何も知っちゃいない。わはは
日本の仏教というのは大乗仏教Budismo Mahāyānaと言って、もう神話的物語に包まれていて、まったく以て歴史的な正当性を持ち合わせていない。(邪道と言われても仕方ない)
あれはバラモン教Brahmanismoやヒンドゥー教Hinduismo、ギリシア神話Mitología griegaからキリスト教、果てはイスラーム教に至るさまざまな要素を混ぜこぜにして創り上げた偶像崇拝型Idolatríaの伝説、神話的仏教Mitología Budismoでしかない。そんなことは歴史を遡れば誰にでも明らかになるのに、つまびらかに明らかになり過ぎる所為で、日本語資料としては封印されている感さえある。ネットでちょこっと調べてみても伝説しか出てこない。創始者であるゴータマ(ブッダ)その人の死後から曖昧に伝説へと繋がれてゆく。或いはその出生そのものをすでに伝説化されたものを基に仏教の歴史としているものも多い。

バカげた話じゃないか? なぜそこにある歴史的真実から目を逸らす??

さて、まずは海外の欧米人(ラテンアメリカ含む)の大半がイメージする仏教とはいったいどんなものか?だ。



 それはヨガや禅Zenという言葉に代表されている。そして仏様のイメージだ。わはははははは
だが待てよ、ヨガは仏教ではない。ヨガはヒンドゥー教Hinduismoのものだ。
禅は仏教のイデアだ。もっともヨガと禅を明確に区別するのは難しいだろう。
けれど言葉として、少なくともヨガは仏教ではない。
ついでに輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónのイメージだ。わははははははははは
そして菜食主義のイメージもそこはかとなく付き纏っている。それが(仏教徒ではない)欧米人たちのイメージしている仏教感だ。
(※ちなみに欧米人の仏教徒というのは、大半が創価学会Soka Gakkaiだ。米国だとほぼ90%以上になるんじゃないのか。それは創価学会Soka Gakkaiだけが唯一、仏教の輸出、海外進出=布教に取り組んだ近代日本の仏教であるからだ。)



わたしは仏教そのものの歴史を学んだことは一度もない。一度もないが、僅かながらもインド史を学ぶ中で仏教の成立史については知っている。そしてバラモン教Brahmanismoから続くインド=パキスタン=バングラデシュに至る地域の宗教の興亡についても齧ったことがある。


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さて、ものすごく簡単にいこう。。。とは言っても恐ろしく複雑なのだけれど。。。

そもそもはバラモン教Brahmanismoだ。
インド亜地域に紀元前2500年当時存在した宗教らしき宗教はバラモン教Brahmanismoだけだ。
もっともバラモン教Brahmanismoは支配層の宗教であり、支配層の人民を支配する為の論理であって、いつの時代も文盲の人々は土着信仰Animismo、地母信仰Diosa madreと共にある。原始的な神々、あらゆる自然の恵みと脅威をもたらす愛すべき神々、そして畏怖すべきというやつだ。
だが原始宗教には体系的な構造などないし、そんなもの求められてもいない。各地によって様々だ。
だが人民を支配するには、権威が必要だ。権威はどこから来る??
権威は武力や宗教、資産によって来る。。。単に人柄やリーダーシップによってくるというのは夢物語だ。わはは

さて、誰でも知っているように、バラモン教Brahmanismo最大の特徴はカースト制度というやつだ。
だが大半の人が勘違いしているが、カースト制度というのはそれほど単純な上意下達のピラミッド構造ではない。
カースト制度というのは、基本的にはそれぞれのカーストごとに分離した社会を構成すべく定められたもので、最上位カーストは最上位カーストのみで社会を構成し、下の上位、中位カーストの人々によってやんごとなきを支えられているという構造だ。
上位カーストの人々は上位カーストの人々だけで社会を構成し、彼らは中位カーストの人々の使役労働によって様々に支えられているという構造だ。
そういう分離した身分制度社会がトータルとして支配の道具として役立つのは、自分たちより下位のカーストが存在し、下位のカーストに対して絶対的にも近い権威と権限を持っているという自意識だ。
下位カーストでさえ、自分たちより貧しく、権利を持たない、権威なき人々の存在によって、自意識=社会を支えられていて、それが上位カーストというものの存在さえも認める根拠となる訳だ。
よく言う"自分たちよりもっと不幸な人たちがいるんだから我慢しなさい、幸せだと思いなさい"というアレとまったく同じ構造だと言えば、理解できるはずだ。
そしてもうひとつは輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónだ。ただ今の我々の知っている輪廻転生感Metempsicosis/Reencarnaciónとは少し違う。。。
支配層は支配層に生まれ変わる。中間層は永遠に中間層であり、最下位層は永遠に最下位層として生まれつく。。。
それが支配論だ。お分かりか?
※教義的にはウパニシャッド哲学Upanishadとの関わりで、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)が有名だがそれは本論では省略させてもらう。ペルシア、ゾロアスター教Zoroastrismoとの共通点が多いことでも知られるが、成立時期の前後については明らかではない。

さて、だがもちろん、いつの世にも反逆の徒はいる。
だが間違ってはいけないが、いつだって奴隷たちは反逆を起こさない。
反逆を起こすのはより恵まれた者たちであって、大抵は支配層の中であったりさえする。

ゴータマ=シッダールタSidarta Gautama(ブッダ)はそんなひとりだった。
だが彼はなにも社会に動乱を起こすような反逆をした訳ではない。
彼はただそれを否定しただけだ。
しかも別に大きな声で否定を叫んだ訳ではない。寧ろ誰に対しても叫んだりはしなかったというべきだろう。
彼はただバラモン教Brahmanismoの教えを自ら否定しただけだ。
彼は思索の徒だった。彼は実践型哲学者と呼んでいいだろう。
彼は人間であり、伝説などどこにもない(あとから伝説を身に纏わされた訳だが)。
彼が拒否したのは輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónだった。(だが輪廻転生のシステムを否定した訳ではない。)
きっと彼は嫌世家だったのだ。彼はもう二度とこんなバカげた(苦痛に満ちた)世の中に生まれつきたくなかったのだ。
そして"解脱Moksha"によって、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónの輪から逃れることができる。もう二度とこんな世界に生まれ変わらなくて済むという哲学を創り上げ、実践したのだ。
カーストの否定も後代の産物であって、彼自身はカースト制度からの脱却と輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónの拒絶を重ねていたとみるべきだ。
同時期にはヴァルダマーナによって同じようにカースト制度に否定的なジャイナ教Jainismoも創生をみている。ジャイナ教Jainismoはより激越な修行と不殺生ahimsaによる解脱Mokshaを説いた。

もちろん、ゴータマは裕福な子弟の出だったから、彼の説く哲学に耳を傾ける仲間には事欠かなかったようだ。
そして多くの弟子が彼と同じように"解脱Moksha"に励むこととなった。
それは人々の噂となり、より下位のカーストの中にある人々の中にも、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónから逃れたいと願う者たちが続出しても不思議ではなかったろう。
そもそも最上位カーストの支配層の人々は労働から完全に解放されていただろうから、修行することにどんな問題もなかったろう。
続く上位カーストの人々にしても、決して難しくはなかったと推測される。
だからそういう人々は知識人、上位カーストを中心にしつつ、少しずつ増えてゆき、結果的にかなりの数の信者というべきか、追随者たちを生み出したらしい。
ブッダの語る哲学はとても魅力的なものを持っていたが、その実践はやはりごく普通の人々にとっては苦痛というか、困難を伴っただったろう。
人々は最初は惹きつけられても、そのままではそう長続きはしなかったはずだ。
だから普通に考えるとインド各地に広まるに連れ、実践度は下がってゆき、思想だけがどんどんと広まったと考えられる。常人には不可能な解脱Mokshaを(ブッダその人さえ実践の徒であった訳で、ようやく死を以て解脱を果たしたと解されるべきものだ。伝説の中では生前に解脱しているが)、もっと安易な形で、すなわち"修行"や"滅私"、"私利私欲の断舎離"のようなものまで哲学的実践は形を変えて広まったとみるべきだ。
より厳格でストイックなジャイナ教Jainismoが仏教のように巨大な存在にならなかったのをみるとそう考えるのにも一理ある。
或いは単にカーストを否定し、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónを否定するものとして民衆に受け入れられたということさえ考えられる。(ブッダその人はカーストも、輪廻転生Metempsicosis/Reencarnaciónもそれらの存在自体は否定していない。それらの意義・価値を否定したというに等しい。)
おそらくは、そういった変遷を経てブッダの教えを継ぐ者たちは、ブッダの死後も支配層の中に大勢残ったのだと想像する他ない。。。(とは言え、いったいどのくらいだったかはどんな資料も存在しない)
そもそも支配層(分かりやすく国王や地方豪族、領主)が、仏教徒であるならば、その地の被支配民族(領民)はほとんどの場合、仏教を押しつけられる訳で、仏教徒と呼ばれる。たとえば実際にアショカAsoka王がそれだ。
だが一方で民衆の中に本当に根を下ろしたかと言うと...なにしろ、いつの世も、民衆は祈り、願いを聞き届けてくれる存在としての『神的存在=救済Salvación』を求めている訳だが、ブッダの教えの中にそういう絶対的創造神は存在しない。仏様(ほとけさま)の存在はブッダの教えの中には一切ない。それは民衆の間に広がりを見せる上では非常に弱かったろう。
だからブッダの生前に、その教えは少しずつ変質しつつ、各地へ広まっていたと考えられなくもない。

そういう変質、バラつきがあって、ブッダの死後の動きは、ブッダの弟子たちによる師の教えの確立から始まる。。。。
各地に広まり、伝言ゲームよろしく様々に解釈され、伝説を伴ってすっかり変質の危機に直面しただろうブッダの教えを、弟子たちが寄り集まって、正統派を確立しようという試みだ。(キリスト教でも繰り返されてきた歴史だ。)2回、3回と数年の間隔を空けて、ブッダの教えが確認される。(※当時は言行録の編纂ではなく、ただ会議として口頭で統一が進められたらしい。)
けれど、もう口伝えにインド各地に広まったブッダの教えは、その時点ですでに伝言ゲームさながら様々に姿を変えてしまっていたと想像する方が正しい。
そして諸派が生まれる。。。要は分裂だ。破門されるような諸派もたくさん出る。

分裂を経て、仏教は一旦、檜舞台から姿を消すかのように見えた。。。代わって台頭してきたのがヒンドゥー教Hinduismoだった。
実はヒンドゥー教Hinduismoの開祖が誰かはさっぱり分からない。そんなものはいないのだ。伝説的にも存在しない。
ヒンドゥー教Hinduismoの成立には少なくとも3つの要素が関わっている。

1.民間土着信仰・地母神伝承の説話集"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"の編纂成立。
2.バラモン教Brahmanismo指導者による生活習慣・法体系の"マヌ法典Leyes de Manu"の成立。
3.ブッダ亡きあとの諸派分裂división de facciones・破門excomuniónされた亜流の存在。

いずれにせよ、ヒンドゥー教Hinduismoという名称は最初からあった訳ではなく、後代になって、それなりの統一された形を持つようになってから名づけられたというのが正しい。(バラモン教Brahmanismoという名はもっとさらに後代につけられたらしい。)
"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"そのものは未読なので内容については詳しくは触れられないけれど、数多の土着信仰、地母神に捧げられた讃歌に絡めて、人々の生活の中にある規律や戒律の成立について決して体系的にではなく、寄せ集め的に土着民間宗教の伝承として編纂されている。

 そんな中、ブッダらによる仏教の広がりに危惧を抱いただろうバラモン教Brahmanismoは、自らの宗教体系と秩序維持の補強にでる。
それが"マヌ法典Leyes de Manu"の成立と呼ばれる。それはイスラームにも共通する"法概念"、社会構造の確立を目指したものだった。
その頃すでにローマ、キリスト教世界と接していたインド社会は仏教やさらに同時期に発生した"反カースト"宗教ジャイナ教Jainismoなどの影響も踏まえて、民衆の生活様式、生活習慣に則した統合的な法体系として"マヌ法典Leyes de Manu"を成立させた。カースト制度の正当性を確認する必要もあったろう。だからそれはあくまでもバラモン教Brahmanismoの支配体制をより確実にし、全土の支配を固める為だったと言われているが、その過渡期の中で先に挙げた"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"が編纂され広まったことがヒンドゥー教Hinduismoの成立に深く関わっている。

 ひとつの見立てとして、この民間伝承説話である"リグ・ヴェーダ讃歌Rigveda"が、先ず破門されたブッダの亜流と結びついて神仏宗教と化し、そこに法体系であるマヌ法典が為政者たちによって導入され、それらがミックスされてヒンドゥー教Hinduismoの母体が出来上がったと考えてもいいかもしれない。だからと言っていいと思うが、ヒンドゥー教Hinduismoは、ブッダの教え"解脱Moksha"を、死に至らずとも"修行=ヨガを通じて生きることにより"果たせるとより人々に受け入れられやすい形で流布させることになる。これをヒンドゥー教Hinduismoの新しいアイデアであるとみる必要はないだろう。ブッダの教えが各地へと広まる中で、そういう破門されたような諸派がヒンドゥー教Hinduismoを創り上げていったとみる方が現実的だと思われるからだ。(なにしろ開祖が存在しない訳で、すべてが曖昧に年月を掛けて取り込まれていったのだ。だからヒンドゥー教Hinduismoは宗教という以上にひとつの文化習慣でもある訳だ。)

さて、仏教に戻る。。。

 そんな訳で、民衆は祈り、願いを聞き届けてくれる存在としての『神=救済Salvación』を求めているにも拘わらず、それに応えられなかった仏教は一旦、インドではその勢力を失うかに見えた。仏教がその勢いを取り戻すには変革が必要だった。
まさにそのウィークポイントである"救済Salvación"を取り入れることでしか仏教に道は残されていなかった。
だが、もちろん、そんなことを考えてブッダの弟子たちが変革を成し遂げた訳ではあるまい。
まさに諸派分裂división de facciones・破門excomuniónの中からそれは生まれたのだ。

 最初は民衆に救いを差し伸べるものとして神に代わる"菩薩信仰fe Bodhisattva"を掲げた分裂諸派が勢力を拡大してきたと考えられる。
"菩薩Bodhisattva"とは、神仏ではなく、修行者のことだ。だがカトリックにおける聖者Santoと同じように、修行者そのもの神格化する動きとして出てきた訳だ。そもそもブッダは人であって、人間であって、なんら神的な存在ではない。それを神的な存在にしようという試みでもあったろう。ブッダが修行者として神的な存在となり、人々に救済を齎す者となるならば、たちまちのようにそれらは偶像化される。偶像崇拝Idolatríaを禁じたはずの人間イエスがまさに偶像としての磔刑のイエスとして蘇り、人々に信仰されたように、ブッダもまた神格化と同時に仏=ブッダとして偶像化され信仰されることで、"ブッダ=救済する者Salvación"という構図が生まれた訳だ。
そうしてようやく仏教は大衆宗教としての性格を纏い始める。。。
さて、ここからは仏教史の時間だ。
わたしには手に負えない。。

 歴史的な事実だけを積み上げると、そんな訳で、アショカAśoka王の時代に一度は王権の伸張に伴ってインド亜大陸を席巻するかに見えた仏教だったが、バラモン僧たちの巻き返し、ヒンドゥー教Hinduismoの創生と席捲によりインド亜大陸からはほぼ一掃されてしまう。
 その後の仏教の歴史を辿ると再び蘇えるのは発祥の地インドではなく、中国大陸においてであった。
 仏教の衰退と移動についてはイスラーム勢力の侵略・支配による寺院の破壊等も見逃せない主因と言われており、寺院に生活拠点を置いていた仏教指導者たちがチベットや中国を始めとする国外へ避難したことも確認されている。 

 中国で新しい変化は起き、ブッダの教えは、"大乗仏教Budismo Mahāyāna"というまったく異質な伝説物語へと変質する。それが我々日本人が中国から輸入した"仏教"というやつだ。(※それに呼応して、ブッダのオリジナルな教えは"小乗仏教Budismo Theravada"と呼ばれるようになる。)
 そこには神的な存在としての仏(ほとけ=ブッダ)があり、カトリックやギリシア神話Mitología griegaに端を発する地獄とその支配者、閻魔大王Iamaがいたり、異様の菩薩は観音菩薩、千手観音、不動明王から毘沙門天、阿修羅、金剛力士、大黒天までもはや原始宗教的な色合いの濃い偶像崇拝Idolatríaを基にした多神教、ゴータマ(ブッダ)が知ったら腰を抜かすような土着信仰や地母神と分かちがたく結びついたごった煮の様相を呈した新興宗教が出来上がった。。。

 だから仏教には2種類あるということ。ひとつはブッダが目指した解脱Mokshaを目的とする実践的哲学、小乗仏教Budismo Theravadaであり、現在は少数派であって、主にスリランカ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどで信仰されており、もうひとつは多数派で、大乗仏教Budismo Mahāyānaと呼ばれ、ヒンドゥー教やカトリック、イスラームなど様々な影響を受けて出来上がった神話的仏教Mitología Budismoと言ってよく、中国、チベット、モンゴル、ベトナム、朝鮮、日本で信仰されているものだということ。但し、チベットやモンゴルのものはチベット仏教Vajrayāna(発音不明)として区別されるが系統としては大乗仏教に属すると考えられている。また現在の中国では14%-20%以下の人々が信仰しているに過ぎないとされているし、より土着信仰と深く結びついた異質なものであるという。
※チベット仏教はbudismo tibetanosと言った方が容易いし、理解されそうだ。但し、チベット仏教にはいくつかの大きな分派があるので注意。

 さて、ありていに言って、我々日本人の大半が好むと好まざるとに関わらず、生まれながらにして仏教徒とされているその"仏教=大乗仏教Budismo Mahāyāna"とはそのようなものだ。(ああ、しんど。)

(追記 1月2日)
そんな訳で、我々日本人が信仰している大乗仏教Budismo Theravadaというのは、仏教神話Mitología Budismoであり、それが故に、大半の日本人において仏教信仰は、祖先崇拝Culto a los ancestrosを中心とする真の意味で信仰FeやCreenciaと呼ぶには相応しくない曖昧なものに留まっている。またキリスト教と異なり、洗礼Bautismoの儀などが存在しない為、生まれた時から好むと好まざるとに関わらず、先祖ancestrosの"家familia"の属性atributoのひとつとして仏教徒であるとされる為、無自覚的inconcienciaであることも少なくない。また大乗仏教Budismo Theravadaにおいては、カトリックと異なり、破門Excomuniónという概念が極めて希薄であり、僧monje身分以外の者が破門されることはまずあり得ない。師を抱く小乗仏教Budismo Mahāyānaにおいては破門制度Excomuniónがある。

 おまけに日本における仏教の祈祷文oracionesの主文は、サンスクリット語Sánscritoの音写(韻を聞き写しsonido copiado)して漢字を当て嵌めたもの=南無阿弥陀仏Nianfoや、サンスクリット語Sánscritoを中国語に漢訳されたものを日本式に読んだもの=般若心経Sutra del corazón、サンスクリット語Sánscritoの音写sonido copiadoと漢訳の日本語読みを混ぜたもの=南無妙法蓮華経Canto Nichiren : Namu Myohorenge-kyo、等を使用しており、日本語としては意味をなさず、日本人には理解不可能な祈祷文oracionesをそのまま現在に至るまで使用している。
 それが故に、日本人は特別に仏教を受講しない限り、仏教の思想を理解することが不可能であるということ。(※これはどう考えても異常な信仰形態というしかないだろう。例えば古代ヘブライ語で書かれた聖書の文言をアルファベットに音写したものを現代米国人が意味も分からずにそのまま暗唱しているようなものだ。)
こういう祈祷文oracionesの難解さは、大半の日本人を自らの宗教であるはずの仏教を理解することから遠ざけてきた。
 また6世紀半ば交易を通じて中国から仏教を輸入した訳だが、それ以前、古代日本には土着信仰である多神教、神道Sintoísmoと呼ばれるものがあった。神道もまた独自の開祖を持たず、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった伝承を編纂した書物を神典として成立している。
 神道は仏教を広める為、わざと一部を除くすべての神社で長く仏教思想と混合され=神仏習合sincretismo de Dioses y Budismo、その後19世紀半ば明治時代になって初めて、政治的な配慮から神仏分離が徹底された。その為、日本人の信仰の中では仏教と神道Sintoísmoは綯い交ぜにされたままであり、仏教徒として規定されながらも、神道の神を崇めることを異としない。
 そういう難解さincomprensibilidadや曖昧さambigüedadが積み重なって、日本人はキリスト教文化を受け入れることにも躊躇がなく、特に第二次世界大戦後の日本社会は欧米文化に感化される中で、キリスト教的価値観に重きを置く神仏混交のカオスとなっている。
 故に、我々日本人の大半は、新年には神社santuarioへ参拝し、カトリック教会で挙式し、仏教徒として仏閣templo budistaにて葬儀を行うということが日常化している。
それは日本人の信仰の曖昧さambigüedad、希薄さdiluciónを招く大きな要因となっている。
(※わたし個人としてはこれをナショナリズムの文脈に置き換えて捉えて欲しくはないとここに付記しておく。) 
 
 
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 そんな訳で、海外の人々に"Tomo、あなたは仏教徒? 仏教って神はいるの?"などと質問される度に、わたしはかいつまんで、出来るだけかいつまんで、わたしのスペイン語能力の能う限りの範囲で(汗っ)、彼らに仏教というものを、そして日本人の信仰の実態について説明する。
わはははははははははははははははは

それが、どれだけ大変なことかっ!! 

つい先日も、現在の住まいのオーナーとワインを飲みながらそんな話になった。
いつも困るのはスペイン語で大乗仏教や小乗仏教をなんて言うか、だ。
いつもいつも苦労してる割には一度も調べたことがない。いつも"スペイン語ではなんて言うのか分からないけれど、直訳すると我々日本人はBuddismo grande, Buddismo pequeñoと呼んでる"なんていい加減なことを言ってた。わははははははははは
そんな訳で、今回改めてヒマ潰しに、頭の中を整理しつつ、必要な単語をスペイン語で調べてみることにした。
それが今回blogを書いた理由だ。

大乗仏教 Mahāyāna Buddhism(英) / Budismo Mahāyāna ブディスモ・マーヤーナ
小乗仏教(上座部仏教)  Theravada Buddhism(英) / Budismo Theravada ブディスモ・テラバーダ

バラモン教 Brahmanismo ブラーマニスモ (なるへそ、ブラフマン教という意味なんだ。バラモンでは通じなかったんだね。。。汗)
ヒンドゥー教 Hinduismo ヒンドゥイスモ
ゾロアスター教 Zoroastrismo ソロアストリスモ
ジャイナ教 Jainismo ハイニスモ
マヌ法典 Leyes de Manu レジェス・デ・マヌ

偶像崇拝 Idolatría イドラトリア 

輪廻転生 Metempsicosis メテンシコシス だがこれで通じる人は少ないかも知れない。
単に転生 Reencarnación レエンカルナシオン の方が分かりやすいかも知れない。

解脱 Moksha モクシャ 伝わるんだろうかね?? la liberación espiritual リベラシォン・スピリトゥアル精神の解放??(wikiの説明)

ちなみにカースト制度は Casta カスタとなっていますが、多分、伝わらないと思います。el sistema de castas よりは、clasismo(階級主義)の方が伝わりそうな気がします。el sistema clasismo システマ・クラシスモで十分かと。。。

えーと。。。汗っ

菩薩を調べてみたら、 
菩薩 Bodhisattva と出てきましたが、発音が分かりません。。。 ボディサトバでしょうか??
菩薩信仰は Fe Bodhisattvaです。
信仰 Fe または Creencia フェ、またはクレエンシア
洗礼 Bautismo   バウティスモ
不殺生 ahimsa アイムサ
チベット仏教 Vajrayāna (発音不明) ...  budismo tibetanos  ブディスモ・チベターノの方が分かりやすいだろう。

ゴータマ=シッダールタは、なるほど氏名の順序が変わる訳だ。わはははは  Sidarta Gautama シッダールタ・ガウタマ
 
祖先崇拝 Culto a los ancestros クルト・ア・ロス・アンセストロス

属性  atributo アトリブート

破門  Excomunión  エクスコムニオン

無自覚的 inconciencia インコンシエンシア

無神論者  Ateo (無神論 Ateismo)  アテオ (アテイスモ)

ああ、しんど。。。(再び。笑)
全部覚えられるかな。。。すぐ忘れるやろな。。。
ホンマはこれを全文スペイン語に訳せたら一番いいのだが、そんなこと、とてもじゃないがわたしの手には負えない。。。わはは
誰か助けてくれる?? 
わははははははははははははははははははははははははははは

 
img141a43204_1.jpg 
※想像し得る範囲の実在したゴータマの像。修行僧のイメージですな。
写真はネットから拝借しました。


追記、スペイン語
 
音写 sonido copiado ソニード・コピアード

漢訳されたものを日本語読みする leer la frase traducida al china por pronunciación idioma japones

サンスクリット語 Sánscrito サンスクリート

祈祷文 oraciones オラシオン

難解さ incomprensibilidad インコンプレンシビリダッ
曖昧さ ambigüedad アンビゲダッ
希薄さ dilución ディルシオン

神道 Sintoísmo シントイスモ

神仏習合 sincretismo de Dioses y Budismo シンクレティスモ・デ・ディオス・イ・ブディスモ

神社 santuario サントゥアリオ

仏閣 templo budista テンプロ・ブディスタ

南無阿弥陀仏(念仏)  Nianfo ニアンホ

般若心経  Sutra del corazón スートラ・デル・コラソン

南無妙法蓮華経  Canto Nichiren : Namu Myohorenge-kyo カント・ニチレン

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